東洋宣教会・北米ホーリネス教団の歴史

杉 村  宰 著

序 章 

 東洋宣教会・北米ホーリネス教団の萌芽は、南加ホイッティアにあるクウェーカー教徒の第一フレンド教会にある。一九〇〇年代初頭のことである。しかし、それに先立ってフレンド派による日本人伝道は既に一九〇五年に北加バークレーにあるフレンド教会によって始まっている。そこでは日本人達に英語を教えることによって、伝道がなされた訳だが、北米での日本人伝道で最も効果があったのは、実はこの英語の学びという手段を通してであった。ちなみにブラジルではポルトガル語の学びを通して信仰に導かれている人は先ずいない。多くは伝道集会への招きによって導かれている。これはアメリカとブラジルという受け入れ側の文化や世相の違いを反映している。つまりアメリカでは日本人排斥の流れの中で日本文化が受け入れられず、アメリカになじまないと生活が出来なかったという現実があり、一方ブラジルではそれぞれの文化が大切にされているから、ポルトガル語を学ばなくても生活が出来たという事情がある。

 このホイッティアの第一フレンド教会での日本人伝道は一九〇七年に始まっている。当時すでに日本でクエーカー教徒であった木田文治師はその年に、クエーカーの日本代表として渡米し、ホイッティアに来ている。それからシカゴのムーディ聖書学院とか幾つかの聖書学院を転々とするが、翌年ホイッティアに住まいを定め、一九一六年に帰国するまでの八年近くを日本人伝道のために、ロサンゼルス近郊の巡回教師として奉仕する。北米に来て、日本人の救いのために重荷を与えられたからであろう。巡回地としては、エル・モデナ、ロング・ビーチ、ニューマーク、パサデナ、ホイッティア東部、アップランド、ベル、そしてホイッティア等である。

 木田文治師の後任者になったのは、高田松太郎師であり、一九一一年に、この第一フレンド教会の日本語の牧師として招聘されている。この招聘には、日本の聖徒と云われた笹尾鉄三郎先生の推薦があり、高田師は三三歳で渡米している。彼はホイッティア大学の聴講生として教育学を学び、一九一六年からはホイッティアのフレンド教会での牧会のかたわら、ハリウッド独立教会も牧会している。当初彼は木田文治師と一緒に伝道していたが、木田師はエル・モデナの方に移ってそこで伝道することになった。一九一三年の頃である。その頃にはフレンド派の伝道地は八箇所にも及んでいる。ちなみに一九一三年当時の高田松太郎師のサラリーは五十ドルであった。一九一九年の頃、日本のビリー・サンデーと云われた伝道者、木村清松がパサデナで特別集会をした時には百名もの参加者があり、十二〜十五名の決心者が与えられている。高田師は一九二〇年に帰国しているが、妻の松枝夫人の母堂が召されたことがその要因だったようだ。実は高田師のホイッティア時代にすでに北米ホーリネス教会創立者の佐久間英、八尋丈市(ジョージ)、矢野初達とのコンタクトがあった。またサンファナンドの井口幸恵姉も高田松太郎牧師から、救いの確信を与えられている。彼女は当時ラグナに住んでいたが、その家庭集会に高田牧師に来ていただいたのである。ただ聖霊を受けたという確信がなかったので、洗礼までは至らなかったようであるが、中田羽後師が後継ぎをし、青年達が教会を創設するようになる前に、北米ホーリネス教会の礎が様々なところで築かれつつあったのである。その後、高田松太郎師の後任として、北米ホーリネス教会の産婆役、中田羽後師が奉職したのであるが、それは一九二〇年のことであった。丁度その頃、既に日本ホーリネス教会監督であった中田重治師の長男、中田羽後師がロサンゼルス聖書学院(バイオラ大学の前身で、六番街とホープの角にあった)の院長であったR・A・トーレー博士の薦めもあって、その聖書学院で学んでいた。彼はまた同時にホイティアにあるフレンド教会の日本語部の学生牧師として依頼されていたのである。そこに佐久間英、八尋丈市(ジョージ)、矢野初、奥田アヤ、米山花子、岡本吾市、平野俊雄、そして城ノ口唯雄という青年達を主が引き寄せて下さったのである。この中で岡本吾一兄が一番の若年であったようだが、それでも彼らの教師となった羽後師とはほとんど同年輩であった。吾一兄はやがて羽後師の義弟となる。

 一九二〇年にはこれらの青年達のうち、奥田アヤ、八尋丈市(ジョージ)、矢野初、米山花子達はすでに南ハリウッドにある加州聖書学校(ホバートとレモン・グローブの角)に通っており、佐久間英、平野俊雄両兄は中田羽後師の学んでいたロサンゼルス聖書学院の生徒であった。その中でも特に熱心な「三人組み」がいたようである。彼らは岡本、平野、そして佐久間各兄だそうである。そのようにして城ノ口唯雄兄を除く全員が福音の第一戦に立ったのである。ところが中田羽後師の導く聖書研究会が燃えた。それが北米ホーリネス教会の最初のリバイバルになり、ついにはホーリネス信仰を柱とした教会を創設しようということになったのである。そんな最中、羽後師は福音歌手としてお父さんの中田重治監督の伝道の一翼を担うということと、シカゴでの音楽の学びのために、お父さんとアメリカ東部に同行することになったので、彼らを導く人物がいなくなってしまったのである。そこで青年達はハリウッドの加州聖書学校の中にあるブラウン色のトリニティ教会の礼拝堂に移り、そこで祈リ叫ぶ魂の救いと聖潔と聖霊の満たしのための涙の祈りが深夜まで延々と続いたのであった。特にモンテベロに住んでいた岡本吾一兄などの場合には、片道二時間かかって毎週の祈祷会に休まずに出席したというから、その心がどんなに燃えていたかが伝わってくるようだ。そんな彼らはやがて適切なリーダーが与えられると信じて、そこに「東洋宣教会羅府教会」の看板を掲げることになる。一九二一年四月のことであった。それはまた彼らを導いてくれた師、中田羽後の希望でもあった。

 北米ホーリネス教会に最初のリバイバルが起ったのは、一九二〇年の夏過ぎであるが、ちょうどその前年の大正八年末に東京の淀橋ホーリネス教会でリバイバルが起っている。それは主に、ホーリネス教会を中心に起ったものであり、中田重治監督はその火付け役であった。思うに、羽後師のもとには、日本で起っているリバイバルのニュースが幾度か届いていたことであろう。それによって彼の聖書研究会も当然熱を帯びていたに違いない。北米でのリバイバルは、羽後師を通して、回を重ねる毎に大きなうねりとなってホーリネス教会創設へと押し出されていったのではないかと思われる。ホイッティアの第一フレンド教会は一九一六年頃には、千二百名もの教会員がいた。これはフレンド派としては世界最大の規模であったという。そんな中で、中田羽後師が招かれた訳だが、その時すでにフレンド教会自体に教会形成の大きなうねりがあり、それが日本人伝道に拍車をかけていたということも、リバイバルの起った少なからぬ要因であろう。

 私達北米ホーリネス教団での最初の洗礼式は一九二一年の九月のことであり、中田重治、羽後父子が帰国の途上、ロサンゼルスに立ち寄った際に、九名の者が太平洋の白波砕ける海岸で洗礼をうけ、そのうち七名が東洋宣教会の初穂であった。そのうちの一人が岡本新三郎兄であり、岡本吾市師の長兄にあたる。北米ホーリネス教会の初穂は吉原武一(ぶいち)兄であるが、彼は東一番街とサンペドロの角で路傍伝道していた平野俊雄兄はじめ五人の神学生に「あなたは救われていますか」と問い掛けられ、悶々としていた彼にはそれが天来の声として響いたようだった。それから葛原師のもとに来て救いにあずかっている。吉原兄もこの時に洗礼を受けているのではないかと推察される。そしてもう一人は矢野初姉が羽後師から洗礼を受けている。八尋丈市(ジョージ)兄とゴールインしたのもこの一九二一年である。

 このようにホーリネス教会の歩みを振り返ってみると、私達はフレンド教会に実に大きな負い目があるということに気付く。特に一九〇〇年代初頭のアメリカは日本人に対する風当たりが強く、北加では大規模な反日運動が起っていた時期であり、特にホイッティアで日本人伝道が始まった一九〇七年にはルーズベルト大統領令による移民法が施行され、日本人のアメリカ本土への移民が禁止された年でもあった。そんな時にクエーカー教徒達は日本人伝道に門戸を開いてくれたのである。そのような彼らの愛と勇気とに、心から感謝の意を表したいものである。また私達北米ホーリネス教団は、そんな日本人排斥のただ中から建て上げられた「鍛えられた信仰の群」であることを銘記したいものである。

第一章 日系人伝道のあけぼの

―戦前篇(その一)―

 東洋宣教会・北米ホーリネス教団の歴史は一九二〇年にさかのぼる。数名の献身的な青年によって始められた小さな群れが、今では十一の教会と、二千名近い教会員となるまでに成長した。六十数余年の歴史をもっている教団は、古いほうではないが、日系人教会の中で、誰の助けもなく、日本人の手によって、しかも自主的に建て上げられた教会は私達のこの教団だけである。その点において、北米ホーリネス教団は実に特異な存在である。

 ここ数年、教団の様々な会合でヴィジョンが云々されているが、教団の明日がどのようであるべきかは、過去の歩みを知らずしてどうして私達の明日を語ることが出来よう。しかも、北米ホーリネス教団がどのような経緯ではじめられたかについては、未だ内外に異論のあることでもあり、それらの点も明確にしてゆきたい。

 いずれにしても、この教団のルーツがどのようなものであり、いかに発展してきたのかを振り返ることは、私達の教団の将来の発展のためにも欠くべからざる学びとなってくるのだと思う。

 その意味において、この教団の歴史の学びが、明日の私達の歩むべき道を示す指極星ともなればと心から願わされる次第である。そこで、先ずその手始めとして私達のルーツがどのような歴史的背景の中で、スタートしたのかをみてみよう。

 一八六九年といえば、今から一二〇年も前のことであるが、この年に日本から最初の渡航者がアメリカ本土に渡ってきた。日本人の中で、一番最初にパスポートを取得したのが、順天堂病院の二代目の院長で、後に大隈重信が不慮の遭難にあった時に、彼の足を切断し、一命をとりとめた佐藤進博士であるという。その当時のパスポートには、実に丁寧な注意書きがあり、例えば、外人より借金をしてはいけないとか、出先で日本人に会ったら親切ををつくし、もし不心得者があったら意見をしてやれとか、実に悠長であったようだ。

 北米の地でのキリスト教の歴史は、個人的には明治初年頃の一八七〇年前後にまで遡るが、団体活動としては、一八七七年にサンフランシスコで、青年、留学生を対象とした聖書研究会、及び英語の学びのために興した「福音会」に始まる。これは後に日本人メソジスト教会となっている。

 南加では北加にくらべて、年代的に十年の開きはあるが、一八九〇年に、やはり福音会と同じ経緯でロサンゼルスの四番街にクリスチャンの集会がスタートしている。それゆえ数名の青年有志たちが開拓を始めて北米ホーリネス教団の基礎づくりをした一九二〇年という年は南加日系人に伝道が始まってから三〇年は経過しているということになる。その時までに、南加地区には約二五の日系人教会が建てられている。

 それらの青年達とは平野俊雄、岡本吾市、佐久間英、八尋ジョージ、矢野初の諸師であって、他にも奥田アヤ、米山花子等がおられたが、開拓初期に他に移られたりしたので、つまる所、五名が北米ホーリネス教団の萌芽となったのである。

第二章 手作りの教団

─戦前篇(その二)─

 さて、開拓当時の北米ホーリネス教団の歴史を更に綴ってみよう。

 北米ホーリネス教団史をひもとく上で興味ぶかいことは北米のホーリネス教団人の書く歴史と日本ホーリネス教団人の書く歴史とでは自ずと異なってくるということである。これは歴史をしたためる時に避けられない史観の常なのであろう。今回はその辺りを記してみたい。

 日本ホーリネス教団の中田重治監督の子息に中田羽後師がおられた。羽後師は一九一九年にロサンゼルス聖書学院に入学しているのだが、彼はその後ホイッデアにある日本人フレンド教会の牧師を依頼され、その嘱託となっている。その教会に集まっていたのが北米ホーリネス教団創立の萌芽となった青年達である。真っ先に献身した佐久間英、熱心なクリスチャンホームでメイドをしていた矢野初、羽後師の義弟となった岡本吾市、この中では一番の年配であった八尋ジョージ、そして、しばらくして加わった平野俊雄の五名であった。八尋兄は矢野初姉の友人であって、彼女に引かれて教会に行っていたのであったが、この五名の中では唯一のアメリカ生まれであって、日本語もその当時たどたどしかったのである。

 当初、交わりが中心であったこれらの青年達の集いも次第に熱をおびてくるようになり、ついに小さなリバイバルのようになった。ある者は罪を告白して救われ、ある者は身も魂も全く主に献げて潔めの体験をした。そして大部分が伝道の召命をうけたのであった。このように涙をポロポロ流して祈る祈りが私達の教団のスタートであったと言っていい。青年達は変った。彼らはじっとしておられなくなり、毎晩のように羽後師やジョージ兄が運転する車で付近に散在する人々に伝道していったのである。これらの青年達を訪問先の農家では日曜学校の先生達だというので、どこでも御馳走をこしられて歓迎してくれたという。羽後師はこれらの青年達に潔めの必要を説き、ホーリネス教会の設立を絶えず語ってきたのである。

 しかし、その後、羽後師は東部に勉学のために行ってしまった。それにより彼らは指導者を失い、ロサンゼルスに移ってしまったのである。そこで更に多くの日本人に福音を語るためであった。そして、羽後師が再び訪れた一九二一年の秋には既に「東洋宣教会・羅府教会」の看板を掲げて彼らは伝道していたのである。

 既にその時は、中田重治監督によってケンタッキーで学んでいた葛原定市師が、日本ホーリネス教団の加州部の牧師としてロサンゼルス教会に任命されていることもあり、北米ホーリネス教団は日本ホーリネス教団の下で設立されたように言われるのだが、実際に教団をスタートしたのは、実にそれらの青年達だったのである。私達の教団はそれらの青年達の手づくりの教会であった。

第三章 葛原定市師の到着

─戦前篇(その三)─

 北米ホーリネス教団をスタートさせたのは、中田羽後師の産婆役としての働きはあったにしろ、平野、岡本、佐久間、八尋そして矢野という五人の聖霊に満ちた青年達の献身的な努力によっている。

 彼らは一九二一年の四月からハリウッドの加州聖書学校にあったトリニティ教会という礼拝堂を拠点にして、東洋宣教会の名をもって定期集会を始めるに至った。水曜日は夜を徹して祈りが捧げられ、土曜日は地方伝道と称してサンファナンドやモンテベロにまで出かけて行き、日曜日は路傍説教や訪問等の伝道活動に励んだのである。

 彼らは実に熱心であった。当時のことを八尋ジョージ師は次ぎのように述懐している。『その頃、皆が学生であって、なかなか鼻息が凄まじかった。あまりに熱心に救霊のために活動したために、時には先方から怒られたり、嫌われた事もあった。その頃の思慮の乏しかった事、人を見るごとに「あなたは天国にいけますか」と聞くので、先方は驚いた顔をして返事に困ったものであった。それほどに猛烈だったのである』と。

 しかし、彼らには羽後師が東部に去った後、霊的なリーダーがいなかったのである。霊には燃えていても、その信仰を成長させるためには、やはりリーダーが必要であった。

 一九二〇年の九月に中田重治監督は渡米し、その一〇月二〇から四日間、日本人教会で信仰復興救霊大会を開いている。この時はまだ羽後師がホイッティアで牧会をしており、この直後に、そこでの牧会を辞め、お父さんの重治師と一緒に東部へ旅行していることから、恐らく、この期間に青年達は羽後師を通して重治監督に、彼らのリーダーとなるべき人物を打診したに違いない。

 翌一九二一年の五月下旬に中田父子はケンタッキー州のアズベリー神学校で学んでいた葛原定市師と会っている。葛原師は六月二二日にロサンゼルスに着いているから、もし前もって中田師と葛原師とが連絡をとっていなかったとすると、葛原師は中田師と会った時にロサンゼルス行きを即決していることになる。多分、そうではなかったかと思われる。

 葛原師がロサンゼルスに到着した時の日記を次に引用してみよう。「五時起床。今日はロサンゼルスに着く日である。排日の加州に身を入れる日であると思うと妙に緊張してくる。昨夕地平線上に上った月は、広野に隠れ場を失ったとでも言いたげに、太陽が東天に上った後にも尚、高空にそのまま淡い姿をいつまでも残している。もう日本人の姿も見えそうなものだと思うが、ユーマに出てもまだ会ったように思わぬ。羅府に近くに従って田園はしばらく緑を加えてくる。午後一時五分、遂に目的地に着いた。岡本兄はじめ四、五名の青年達が出迎えて来られたのは感謝。自動車にて、八マイルの道をハーバード・ブルバードなる寓所へ。至れり、つくせりの歓待を受けて入浴もし、昼食をもとり、休もうとしたが眠られぬ」とある。当時の感激した様子が何か目に映るようである。

第四章 現代の使徒行伝

―戦前篇(その四)─

 このようにして、一九二一年六月二二日の朝に葛原先生はロサンゼルスに到着した。「その夜は、青年達の用意したご馳走で身も心も飽き足りた」と先生の日誌にはあるが、当時の先生の心境はどのようであったろうか。次の日の木曜夜の祈祷会で、先生は八名の会衆に向かい、ロサンゼルス教会に対する自分のコンビクション(信念)を語ったという。その内容を明確には知る由もないが、翌年の一九二二年二月に月刊雑誌として出版された「霊声」第一巻の葛原先生の巻頭言を読むと、キリストを伝えることに生きる使命が強調されている。恐らく、そのようなメッセージが先生の神に対するコンビクションとなって語られたことであろう。

 先生が到着したその三日後にはガーデナ、ロングビーチとか近郊の七つの地区への日系人伝道が始められている。モデルTといわれる一台の古フォードのオープンカーに葛原先生を囲みながら青年達全員が乗り込んで、伝道してあるく姿は実に使徒行伝を現代に描いたようで、心燃やされる光景である。近郊の一つであるサンファナンドに伝道した時の先生の日記によると、「ヤソの熱誠というかた過ぎた説教をしたので、失敗であった」とある。当時の彼らの姿を彷彿させるヒトコマである。

 一九二一年の九月下旬から教会は日本人住宅の多い西三六街に移った。当時の集会所はリビングルームのみならず、ベッドルームまでも使用せねばならない程の狭さであった。日曜日になると、ベッドを皆たたんで片づけてキチンに置き、教壇の後には白いシーツを三枚程ぶらさげて、見栄えのよいようにしており、床もゴザのカーペットを敷いての集会であった。しかもその年は特に寒く、岡本、佐久間両兄は寝具の不足のため、足が冷えるので、よく眠ることが出来ず、夜具の間に新聞紙を入れ、寒さをしのぐといった具合であった。そのベッドの寝返りの時には新聞がカサカサと音がするので、誰ともなく鈴虫ベッドと名付けられたのである。食事にしても、いわゆる一汁一菜という生活で、先生も冷たいご飯にシチューをかけて食事をするといった具合で、自分達の生活はさておいても、キリストを伝え、キリストに生きるといった実につつましい質素な生活であった。

 東洋宣教会・羅府教会と銘打ってスタートしたのはいいのだが、収入のない学生達ばかりの集まりとあっては、そのような質素な生活も無理からぬことであったろう。しかし初めより自給をモットーとしてスタートした教会であったから、葛原先生の生活を支え、教会が運営されてゆくために、やはり誰かが、仕事に就いて金銭的にサポートをする必要があった。佐久間兄はじめ二,三の兄弟達は学業を中止して、ガーデナーをしながら、それらの必要を満たしてきたのであった。当初はこのように実に、いばらの道を踏むかのような厳しいスタートであったのである。

第五章 北米ホーリネス教団のリバイバル

―戦前篇(その五)─

 一九二一年に葛原定市先生をお迎えした東洋宣教会・羅府教会は、いよいよ教会としての形を整えてゆく。この群れは既に、葛原先生の来られる前から東洋宣教会の看板を掲げていたのではあるが、それはこの教会の産婆役ともいうべき中田羽後先生の感化による。とはいえ、日本ホーリネス教団との提携関係等は一切存在しなかったのである。しかし、葛原先生が日本ホーリネス教団の監督である中田重治師によって、これらの青年達の群れに導かれることによって、羅府ホーリネス教会は日本ホーリネス教団の加州部としてスタートをすることになったのである。そしてこの状態は、一九三三年に始まる日本ホーリネス教団分裂事件で教団が二分する時まで続くことになる。

 もっとも、日本の教団の傘下にあるとはいえ、羅府教会は自給自立でやってきたのである。それが、一九三五年には名実共に、独立した教会として再出発することになり、その年、北米ホーリネス教会の第一回総会がひらかれ、葛原先生が初代監督に就いている。

 さて、話しを開拓初期にもどそう。一九二二年は急進的拡張の年であった。信仰をもって必要な車の購入もし、二月には「霊声」の第一号が発行されている。これは当初、毎月発行されていたのであるが、一年半程してからは、だんだんそれが延び延びになってしまい。時には数年間、発行されない時もあったが、現在は年に四回の発行になっている。

 またこの年には日本で九年間伝道してこられたハッツラー師を校長として、この四月から日曜学校がスタートをしている。 更にこの年は東京聖書学院教授であられた車田秋次先生がロサンゼルスに来られ、三日間にわたる天幕伝道を催している。爾来、車田先生はたびたびこの北米の地に来られて伝道をしている。

 私は上野教会でインターン生として奉仕している時に、九十歳を越えて、尚かくしゃくとして講壇でご用をしておられる車田先生の謦咳に接することが出来て、心から尊敬申し上げていたのだが、先年、車田先生は百歳を越えて間もなく天に召されていった。その先生の死と前後して、葛原先生も丁度二年程前に百一歳で召されている。このキリスト教界の巨人とも云うべき両師の交わりは、あたかも太平洋を越えて信仰の虹が架けられてでもいるかのように、輝いていたといえよう。神の業の何とくすしいことかと思わされるのである。

 さて、北米ホーリネス教会は葛原先生を中心として、いよいよ出立したのだが、先ず為されなければならないのは、霊の戦いを勝ち抜く事であった。しかし、葛原先生といえども、自分の内側に霊力の無さを感じていた。一九二二年の大晦日の先生の言葉を借りると、その夜の説教で、「それはまたしても力ぬけした説教になってしまったので、私は霊魂に堪えられぬ痛みを覚えました」とある。「福音の使命を帯びて立つものが、こんな有様でどうなるかと思えば思う程、私の胸中には今夜の除夜祈祷会には徹底的に恵まれなくてはならぬ、徹夜をもっても祈り抜かねばならぬと、深く覚悟するようになった」とまで先生は決心をし、その夜は一同で祈り始めることになる。それが実は、北米ホーリネス教会の第二回目のリバイバルとなったのである。その様子をしばらく、葛原先生の「天火来る」(「霊声」十二号)の名文を引用しながらしたためてみることにする。

 「午後十時半、祈らんとて私共九名のものは、静かに聖前にひざまづいた。会衆の数は少ない、しかし、その一人一人が全部を差し出して主に仕えようとする青年達である。徹夜の祈祷に差しさわりのあろう道理がない。我らは始めからひざまづいた。・・・さはれ、一同は午後よりの活動続きで疲れている。集会の空気はしばらく重からんとする。しかし、その時エマオの道に歩みし弟子達の事を思った。最初はうつうつたる重き心をもって始まった彼らの旅路に、中途から主イエスが道連れとなり給うて、彼等の目は開かれ、心は燃やされたのではなかったか。我らは励まされた。しかして一人祈った。また一人祈った。斯くて、主の臨在はようやく近く、聖霊の傾注はまさに今一息に迫って来た事を感じた。更に一人祈り出した。一同の霊潮は実に極度に達した。俄然として聖霊は一同の上に注がれ、全会衆はかちどきの声をあげて一度に祈り出した。時に時計は丁度長短針共に重なり合って天を指していた」。リバイバルの始まりであった。

第六章 リバイバルの経験

―戦前篇(その六)─

 前回はリバイバルについて書いた。昨今、教団レベルでこの霊的リバイバルについて、盛り上がりをみせていることでもあり、暫くリバイバルについて書いてみよう。

 葛原先生の「天火来る」に続けてこのようにある。「聖霊は実にわれらの上に傾注せられた。笑に満たされて身の所在なきに苦しむもの、ハンケチを顔に当てて、泣きだすもの、床上にのた打ちまわって祈る者、椅子を連打して、クリスマス・ツリーの下に熱祷を絶叫する者、誠にそれこそ蜂の巣、殊に雀の巣でも突いたような光景を呈した・・」云々とある。

 葛原先生は、リバイバルは内住のキリストを静かに徹底させようと願っていて、騒々しいのはあまり好ましくはなかったという。だが、これは人間わざではなく、神の為さったことであるから、先生は敢えてその状況を「霊声」に書いたのである。「この叫ぶような祈りが神から来たのであるのならば、誰がそれを妨げられよう」とでも言いたげな、リバイバルへの先生の飢え渇きがひしひしと私達に伝わって来るようである。そのリバイバルの要因を先生は二つにまとめている。それは先ず

 第一に自分が絶対に虚しきことを知るということ。

 第二に全き一致をもって祈ることであった。今日の私達への良い教訓であろう。

 さて、このリバイバルは一九二二年の大晦日の夜に起こっている。この日は岡本吾一、樫谷純郎、芥川詮夫、佐久間英、平野俊雄の有志がこぞって、このリバイバルの体験をしている。この状況は「霊声」の十二号に詳しく掲載されているので、それぞれの体験をお読み頂きたい。これが実は、この北米ホーリネス教会の原動力であった。確かに彼らは三年前に、中田羽後師の下に聖霊の体験をした。その体験が伝道の召命であった。彼らは気が狂ったように伝道して歩いた。路傍伝道の時には道を歩く人々に「あなたは天国に行けますか」と聞いて歩いたという。相手は返答に困ったと「霊声」には記してあるが、無理もないことである。この時がリバイバルの第一回とすれば、この一九二二年の大晦日は彼らにとっては、第二回目のリバイバルと言っていいと思う。だがその後このようなリバイバルは起こってはいない。

 さて、一九二〇年のホーリネス教会発足の年から、一九四一年の日系人立退きに至るまでの歩みは、実に、現代の使徒行伝そのものと言っていいと思う。

 一九三八年の時の統計によると南加地区には三〇程の日系人教会がある。その当時、ロサンゼルスのメソジスト教会とか合同メソジスト教会などは、一世の礼拝では一五〇名以上の出席者があった。一方、ホーリネス教会は礼拝出席者は六五名前後ではあったが、教会成長率からみると、日系人教会では一、二番であった。(WLA合同メソジスト教会がほとんど同じ成長率だから)。そこで、暫くの間、この時の教会成長の幾つかの要因をみてみよう。

 その第一は何と言っても、聖霊の働きであることは論をまたない。いわゆるリバイバルの経験である。これがあったが故にロサンゼルス教会は一致して、救霊の業にあたることが出来たのである。

 その第二は、リーダーシップである。葛原先生の霊的リーダーシップは言葉を超えたものがある。先生は「太平洋沿岸の聖徒」と言われる程の人物であった。その先生と寝起きを共にした青年達は自ずと、師の感化を受けていた訳である。

  (付記)

 ここで、言及しておきたいことがある。これは私自身が混乱していたことでもあるが、葛原先生自身がロサンゼルスに来られた初期の時代は、東洋宣教会・羅府教会と呼ばれた。それが一九二三年からは東洋宣教会・羅府ホーリネス教会と呼ばれ、一九三〇年頃からは、教会の数が増すにしたがって、加州部ホーリネス教会、あるいはホーリネス教会加州部と呼ばれ、それがハワイも加えられるようになってからは、北米西部ホーリネスと言われ一九三二年からは、北米ホーリネス教会と言われ始めるようになった。戦後も暫くは北米ホーリネス教会と呼ばれたが、漸次、北米ホーリネス教団と呼ばれるようになって行く。日本の場合は、ホーリネス教団となったのは、一九四九年のことであり、それまでは、日本ホーリネス教会であった。因みに、慣例として戦前は教会、戦後は教団としている。

第七章 教会成長の要因

―戦前篇(その七)─

 前回は北米ホーリネス教団の成長の歴史のさわりの部分を学んでみたのであったが、今回はそれをもう少し深く掘り下げてみたい。

 羅府教会は当時、南加地区にあった日系三十教会の中でも、めざましく成長して来た訳であるが、特に戦前の働きに関しては、その要因を左のようにまとめることが出来よう。

 その第一はなんと言っても、聖霊の働きであることは論をまたない。私達の教団は二回のリバイバルにはじまっているが、その第一回目はリバイバルの経験である。これがあったが故に、羅府教会は一致して、救霊の業にあたることが出来たのである。教会活動をするにあたって、葛原先生はじめ青年たちが、このリバイバルを経験したことが、その後の伝道活動にどれだけインパクトを与えたことであろう。二回目は、潔めの経験である。リバイバルを通して、この潔めの経験を徹底的に味わった彼らにとって、恐れるものは何もなかったのである。

 その第二はリーダーシップである。葛原先生の霊的リーダーシップは言葉を超えたものがある。先生は「太平洋沿岸の聖徒」と言われる程の人物であった。その先生と寝食を共にすることの出来た青年達は、直接に師の感化を受けた訳である。佐久間英はじめ青年達が献身の道を歩んだのも、葛原定市という聖徒の信仰生活から受けた感化に他ならない。祈りの生活、主への献身、伝道への熱情、牧会の細かい配慮等、青年達に必要な教会生活のイロハを葛原先生の実際生活から学ぶことが出来たのは何よりも幸いであった。

 その第三は宣教の教会ということである。葛原先生はじめ青年達のビジョンは羅府教会だけにとどまってはいなかった。地方伝道に重きを置いていた。葛原先生が東部からロサンゼルスに移られてから三日後には、サンファナンドに出向いている。その外にも、モンテベロやガーデナ、ロングビーチ等にも行った。教会が宣教に力を入れる時に、教会は常に霊的に成長する。逆に教会内部のことだけに力を入れると、教会はいつも沈滞してきた。これは世界宣教史の常の成り行きである。

 その第四は自給の教会であったと言うことである。北米日系人教会の中で、日系人あるいは日本人だけで始められたのは、北米ホーリネス教団だけだと言われている。それだけに、伝道に対する意欲も命がけであった。もちろん、始めの頃の十数年は日本ホーリネス教会の傘下にあったことはあったが、金銭的には一切の援助も受けてはいない。

 その第五は教派という枠を越えて、他教団との交わりがなされていたことである。その頃はよく、フリーメソジストの教会と修養会とか、聖会とかが一緒にもたれていた。また姉妹教会に特別集会などがあると、その教会の伝道を助けるために大拳して出かけるということであった。一つの教会より、二つの教会、二つの教会より三つの教会が協力して伝道活動をするとき、大きな力になることは言うまでもない。

 その第六は献身と言うことであろう。葛原先生はロサンゼルスの四、五人の学生達の所に来たのであるが、それは先生の生活の保証がほとんどないということを意味している。先生の犠牲、つまり主への献身がなかったら、今日の北米ホーリネスの教団はなかったのである。そして当然のように青年たちも先生に従って献身への道を歩んだのである。彼にはアメリカのみならず、カナダにもそして日本にも伝道の使命に燃えて出て行ったのである。

 しかし、銘記したいことは、この献身の道を歩んだのは、それらの青年達であったと言うことである。葛原先生が東部から来る前に彼ら自身の手で既に伝道していたのである。信徒献身がこのホーリネス教団のスタートであった。世界宣教の実はこのような信徒の献身によって為されてきたことも、やはり世界宣教史の一貫した事実であるが、これは教会のリニューアルを云々するとき、決して忘れてはならない特記すべき事項であろう。

第八章 アメリカで生きてゆく事の難しさ

―戦前篇(その八)─

 さてこれまでは、北米ホーリネス教団の、特に戦前の成長の要因を、霊的な面から把えて考察してきたが、今回は社会的、文化的な面から考えていきたいと思う。

 ご存知のようにこのカリフォルニア州に入植した東洋人労働者の先がけとなったのは、中国人であった。十九世紀中期に始まったゴールド・ラッシュにその端を発し、多い時には三十六万人に近い中国人が入ってきている。しかし、その頃はちょうど大陸横断鉄道が完成し、東部から西部へと多くの人々が流れ込んでいたり、南北戦争後の不景気ということもあり、海外から入り込んだ中国人は、彼らの生活をおびやかしていると思われて排斥される憂き目にあった。一八八二年には彼らの移民が禁止されるまでになっている。この中国人の後釜となったのが、日本人であった。当然のことだが、中国人によく似た日本人は白人社会の白眼視にさらされねばならなかった。

 だが日本人の場合は、中国人とちがって先ず、カリフォルニアに入る前に、ハワイに移民として入植した。そこには多くの労働力、とくに砂糖きび畑で働く労働者を必要としていた。一九〇〇年から十年間に、四万人近い日本人がハワイに入り込んでいる。しかし雇用者側では契約を守らないことが多く、そこを止めてカリフォルニアに移って行く人々が増加した。

 でもそこには人種差別が彼らを待ち受けていた。キリスト教国であり、自由と平等の豊かな国と思われていたアメリカ本土が、移住したものにとっては、苦しみと涙の地となっていたのである。その中でも人々はクリスチャンになっていく。カリフォルニアでは、日本人クリスチャン人口が、一九一〇年には、全日系人人口の五%にも及んでいるのである。これは今日の倍近い数値である。では何故、人々はそのような情況の中で信仰を求めたのであろうか。

 ここに大変興味深いひとつの資料がある。それはフリーメソジスト教会牧師の水城ジョン先生の書かれた「ブラジルでの日系人教会の成長」と題する本である。その中で、一世に人々がどのようにクリスチャンになったかというデータが載っている。その三大要素はまず、伝道集会による救いであり、第二は戸別訪問による救いであり、第三は家庭集会での救いということである。

 では一方、北米、特にカリフォルニアではどうであったかというと、その三大要素は、まず教会が日本人のために、英語の学びの場を提供していたということもあり、自ずと教会に導かれ救いに与ったということであり、第二にはブラジルの場合と同様、友人等による訪問伝道であり、第三には、子供達がサンデースクールに通っている関係上、親達も教会に導かれていくようになったということである。これらの資料で分かることは、アメリカではなるべくその生活に溶け込んでいくために、子供達を教会に送り、また自ら英語の学びをしなければならなかったという事情があったことである。つまり、ブラジルでは彼らの社会に溶け込まねばならないというプレッシャーは、アメリカほどではなかったのであろう。実際、南米から来る人々は、三世でも美しい丁寧な日本語を話す人が多い。一方、アメリカでは二世の人達でさえ日本語を流暢に話す人はめずらしい。

 こんな資料がある。戦時中、日系アメリカ人部隊を編成して戦争を有利に導こうという意図から、二世の志願兵に日本語のテストをしたことがあった。四千人受けた中で、ほんの百人だけが少しは日本語が出来るという程度で、日本語も英語も流暢に話せた人は、ほんの十五人に過ぎなかったという。日系人にとってこのアメリカで生活するのに、日本人としての文化を保持しながら、なおアメリカ市民として生きていくことは至難の業であったのである。日本人のアイデンティティーは日本語である。それが十分に伝えられなかったこのアメリカでは、自ずと南米とは異なった伝道方法がとられねばならなかったのである。恐らくこのアメリカ人社会の中に溶け込むために、必要な方法で伝道も考えられなければならないというのは、今後も変わらないのではないかと思われるが如何なものであろうか。

第九章 宣教の拡大

―戦前篇(その九)─

 さてこの辺りで、年代順に話を展開してゆく事にする。

 ロサンゼルスに始まるホーリネス教会は一九二四年にはターロックに最初の教会を産み出すことになるが、後にモデストに移り、モデスト教会と呼ばれるようになる。この教会は人数的にもロサンゼルスに次ぐ教会となり、将来が有望視されていたのであるが、戦争後、その地に戻る人は少なく、やがて消滅してゆく。

 一九二六年にはホノルルでの伝道が始まる。更にワヒアワ、ヒロと教会が拡大してゆくが、後者の二教会はやがて諸事情により、衰退してゆかねばならなかった。

 一九二八年までには、岡本悟市、佐久間英、平野俊雄、八尋ジョージ、樫谷純郎、矢野初の初期の献身者達は全て、神学校を卒業している。これによって、いよいよ地方伝道の基礎が出来上がったことになる。

 一九二九年にはサンロレンゾ教会、一九三〇年にはサンディエゴ教会、一九三四年にはボールドウィン教会とセンタービル教会とシアトル教会、一九三六年にはサンファナンド教会がそれぞれ生み出されていった。

 さて、一九三四年までは北米ホーリネス諸教会は、日本のホーリネス教会の管轄下にあったのだが、日本において、再臨に関する解釈が契機となって分裂問題が引き起こされ、アメリカ側としては、その問題に引き込まれるのをよしとせず、それを機に独立することになった。そこで、葛原定市師を初代監督とし「北米ホーリネス教会」として再出発をすることになった。北米の諸教会が日本のホーリネス教会の管轄下にあるとはいえ、一銭のサポートを受けた訳ではなかったが、とにかく、独立独歩の精神で猪突猛進してきたのであった。これによって、名実共に独立することになったのである。

 一九三六年までには十一の教会が生まれているが、これは現在の日語部の教会数と同じである。この数字は当時の伝道精神の如何に盛んであったかを物語っている。つまり、わたしたちの教団は半世紀以上の間、一つも、教会数を増やしていないという事になる。勿論、当時の十一教会の礼拝出席人数の総数は二百三十名程であるから、現在の三分の一にも満たない(日語部に関する限り)し、その間、戦争もあり、転住所生活があったにしろ、北加を越えて、シアトルまで伝道が為されているのである。今日、州外伝道が云々されているが、最早すでに当時この州外伝道が実行されていたのである。考えるに、当時も今と同じような伝道会議がなされていたのであろう。もしわたしたちが、何の前知識なくしてそれらの伝道会議に出席していたら、五〇年前のものか、今日のものか、区別がつかないのではないだろうか。何か時間の流れを忘れるような錯覚すら覚えるのである。

 では、当時の伝道意欲はどのような所から生まれていたのであろうか。様々な要因があるにしろ、何といっても、葛原先生の献身的な働きが先ず第一に上げられねばなるまい。その葛原師の献身的生活であるが、次のような話がある。一九三八年、葛原清香夫人は病のため、担当医師から二週間の命と言われたことがあった。しかし丁度その時、シアトルで新年聖会の御用があり、先生は行っていいものか、残るべきものか迷ったのである。その時、夫人は「わたしは大丈夫ですから是非出かけて下さい」と言われたのである。葛原先生は後髪を引かれる思いでシアトルに出かけたのではあるまいか。幸いにも、夫人は命ながらえて、その年末まで生きておられた。八人の子供を残して清香夫人は召されていたのであるが、爾来、葛原先生は再婚せずにいた。召されるまで、丁度半世紀であった。ご夫妻の生き方に、献身者としての典型を見るのである。そのような葛原先生を慕って、多くの青年達がやはり献身していった。

 一九二〇年代には、上記の献身者以外に、福田吉郎、霜鳥武雄、中村覚多、芥川詮夫(カナダのカルガリーで二〇〇〇年に召されている)の諸師が神学校に導かれている。

 一九三〇年代には、ハワイから末広栄司師、既にボイルハイツで伝道牧会していた長井喜三郎師は、ホーリネス教会に所属し、そして今もわたしたちを励まして下さる衛藤衛師は、一九三三年に「ハリウッドの祈りの家」の主任としてホーリネス教会に所属している。ヒロの城間次郎師、宣教師であったハイスドーフ師、橋本泰師、また日本から沖本為一師、葛原定市師の子息の千秋師、黒田章師、その外に信徒伝道者は多数である。

第十章 戦争による中西部への立退き

―戦中篇(その一)─

 葛原定市牧師の下に、多くの献身者が与えられ、巣立っていった。戦前までには十一もの子教会が創設されているし、北はシアトルまでそしてハワイにまで伝道の足が延ばされている。北米ホーリネス教会は日系諸教会の中でも、教会成長の点において目をみはるものがあったのである。

 それが一九四一年十二月七日(アメリカ時間)の日本帝国海軍の真珠湾攻撃によって、日米対戦が勃発し、教会活動は停止させられてしまった。十二万人に近い日系人が近隣の十五のアッセンブリー・センター(リロケーション・キャンプに送られるまでの一時的収容所)に送られ、更には十のリロケーション・センター(一般の日系市民が転住した収容所)あるいはインターンメント・キャンプ(日本との直接あるいは間接に関係のあった人々の収容させられた所。例えば日本語教師、日本軍人、右翼思想者、武道の教師、宗教的指導者等)に送られることになったのである。真珠湾攻撃のショックは大きかった。一世、二世はどのようにしてよいかも分からず、敵国人としてどのような仕打ちがあるやも知れず、恐怖におののくばかりであった。

 戦争勃発によって、ロサンゼルス教会はFBIの尋問を受けることになるのだが、聖書が説かれている限り、問題なしということであった。しかし、勃発三日にして、千二百九十一名もの人々が留置されることになり、インターンメント・キャンプに送られた。

 一九四二年二月十九日には大統領令で太平洋岸のカリフォルニア、オレゴン、ワシントンの三州に住む日系人は内陸の各州に転住されることになった。その人口は全日系人口の九十%にあたる。彼らは手に持てるほんの少しの荷物だけを持って転住せねばならなかった。ロングビーチ港に近いということもあって、サンペドロにあるターミナル・アイランドの多くの日系人の漁師達は、二十四時間の通知で立ち退かねばならなかったという。家も財産も二束三文で売ったり、預けたりして軍差し向けのバスでアッセンブリー・センターに向かったのである。

 この年、一九四二年三月二日にはいわゆる自由立ち退きが出来るという通知があった。これはそれぞれの意思で、東部諸州に移ってもよいという内容のものである。しかし、この通達によって移った者は五千三百九十六人であって、他の十一万二百三十一人は十のリロケーション・センターに転住することになった。

 ロサンゼルス教会では、この自由立ち退きに真っ先に呼応して、ユタ州に移ろうということになり、様々な協議がなされ、実地視察しようというところまで話が進んでいたのだが、その時には既に自由立ち退きが禁止され、このプランは流れてしまった。だが、この自由立ち退きのまだ許されていた期間中にシカゴに移った人たちも何人かはいた。歯科医の吉田友次郎兄と松尾早次兄の両家族である。彼らはやがて戦時中にシカゴで始まるレーキサイド教会のコーナーストーンになってゆく。

 このシカゴの教会であるが、先年、葛原千秋師はレーキサイド教会がどのように確立されていったかを次のように述懐している。

 「父(定市師)はコロラドのアマチ・キャンプに二年いたが、それからシカゴのクリスチャンたちは、日系人というので、しばしば石を投げ付けられ、いじめに合っていた。ある時、父はムーディ教会を訪ね、教会の一部を借してもらえないかと訴えたことがあった。(いろいろな状況を踏まえて、教会の一部を借りて礼拝を守ることが最善と思ったのであろう)。しかし彼らの応えはノーであった。ある日、父はヨーロッパ最前線にいた兄弟ケンの所属する部隊長から、一通の手紙をもらった。その手紙はケンがいかに立派にアメリカのために戦っているかという賛辞とケンを送ってくれた父に対する感謝の内容であった。父はその手紙を鷲づかみにして、ムーディ教会に走ったのである。今度は誰も父たちの会堂使用に反対する者はなかった。」当時の日系人の様子を彷彿される千秋師の述懐である。

第十一章 転住所での信仰生活

―戦中篇(その二)─

 前回は、太平洋戦争勃発にともなって、日系人の心の動揺と立ち退きに関する状況がどのようであったかを述べた。今回はアッセンブリー・センターからリロケーション・センターへの転移の模様とクリスチャンの活動がどのようであったかを語りたい。

 一九四二年の二月の十九日に「大統領令九〇六六」が発令されることによって、一二万余りの日系人が太平洋沿岸三州から内陸へ転住させられることになった。今から丁度五〇年前のことである。この記念のために多くの日系人コミュニティで様々な集会が開かれていて、ラフ新報等ではそれらが逐次報道されている。

 私は夏の休暇を利用してよくヨセミテに行くが、その途中リロケーション・センターの一つであるマンザナーに立ち寄る。いま国定の史蹟となるかどうかで、大統領のサイン待ちという段階であるが、そこには壊れかかった衛兵所が二棟あるばかりである。そこは死の谷・デスヴァレーに小一時間程で行くことが出来る渇ききった砂漠気候のど真ん中である。アラスカを除く全米最高峰のホイットニー山のふもととは云え、夏は暑さが厳しく、冬は寒さが肌を刺す。こんな所でよくも三年半にわたって、一万人を越える日系人が住んでいたものだと思う。

 私はこのマンザナーのすぐ近くで、学生時代に四週間にわたって地質調査をしたことがある。五月ではあったが、昼と夜が真夏と真冬のようにやって来るかのように実に厳しい天候であった。しかも収容された人々は、プライバシィなどとても守れない様なバラックに入れられいる。ある者はそこで生まれ、あるいは死んでいった。州道三九五号線から少し入った所に白塗りの慰霊塔があるが、その回りには小石を並べてお墓にしたてた小さなお墓が並べられてある。それらの幾つかは赤ちゃんのものである。機関銃が向けられ、鉄条網に囲まれて、墓石の買える状況にある訳でもなく、家族であっても、何もしてやれなかった当時の哀しくもあり、空しくもあった人々の叫びのようなものが、何か聞こえてくるようである。

 このマンザナーにはサンファナンド教会の富田静子姉はじめホーリネス教会関係者が九家族入れられていた。しかし、何といってもホーリネス教会関係者が多いのは、コロラド州のグラナダ・リロケーション・センターで、通称アマチと言われていた転住所である。そこには監督の葛原定市師はじめ三八家族が入れられていた。

 後から転住所については詳しく述べたいと思うが、その前にアッセンブリー・センターと云われる集合所に入れられる時の状況について少し言及することにしたい。これは転住所に振り分けられる前の収容所であり、やがて転住所の施設が出来上がるにつれて、それぞれに振り分けられてゆく。カリフォルニアには日系人の中心地にあたる所に一二の集合所があった。

 ロサンゼルス近郊では、サンタアニタの競馬場に二万人近い人々が収容されていた。馬を飼っていた場所にである。そこでは勿論、多くのクリスチャンがいた訳で、先ず最初に彼らがしたことは、連合キリスト教会を創設することであった。これはバプテスト派、メソジスト派というキリスト教の主流と云われるグループからなっていて、葛原千秋師によると三千人ものメンバーがいたという。しかしホーリネス教会と、フリーメソジスト教会は連合教会に加わらずに独自のグループを形成するに至る。ホーリネス教会の場合は転住所に移ってからでも、やはり独自の集会を持っていた。それ故、ホーリネスは他のクリスチャンからも「いつも何をしているのか」と疑われれていたと云うが、そう言われても致し方のないことであった。恐らく、他教会は伝道的ではなく、信仰も違うというので一緒にはならなかったのであろうが、連合教会もホーリネス同様、やはり伝道という点においては、決して見劣りするところがないばかりか、とても伝道に熱心であったのである。

 一方、英語部に関しては、集合所にしても転住所にしてもいつも一緒に活動をしている。そして活発な伝道が為されているし、献身する者も起こされている。木村連師はその転住所で献身をし、東部の神学校に入っている。

第十二章 香気ある人々

―戦中篇(その三)─

 さて、全日系人口の九十%にあたる十二万人もの人々が転住所に入れられることになったのだが、その当時のアメリカ人の反応は一体どのようであったのだろうか。今回はそのあたりから話を進めてみたい。

 勿論、国を挙げての戦いであるから、アメリカ国民全体に日本人及び日系人に対する憎しみや差別や誤解が渦まいていたであろうことは論をまたない。しかし、中には深い同情を寄せてくれる人々もいたのである。日米戦争の勃発以来クリスチャンの中でもフレンド派の人々は特にそれが顕著であった。ある日、陸軍差出のバスでアッセンブリー・センターに向かう時のことである。その時分は日系人の誰もが、どこに行くのかもわからずに不安と焦燥の頂点にあったと言っても過言ではあるまい。そんな時、陸軍バスの中に誰とも分からないが、全ての座席にランチボックスが置いてあったのである。今後どうなるのかも分からない日系人がそれらのものを準備するのは、不可能であった。誰か分からないが、アメリカ人のグループの用意したものであるに違いなかった。しかし、当初はどこのグループであるかは、知ることが出来なかったが、ふとしたことから、それがフレンド派の人々であったことが判明したのである。後日、このグループの中から「やぎのおじさん」で有名なハーバード・ニコルソン宣教師が日系人の名誉回復のために、さましく東奔西走してくださっている。クリスチャンの中でも特にこのグループが当初から親身になって労して下さっている。

 また戦争当時、日系人に対して風当たりの強い中で、実に香気ある働きをした人物がいる。その一人はラルフ・コロラド州知事である。彼は日系人の差別を不当として、「もし私が正しいと思うなら、日系人の迫害をやめよ。しかし、もし私が間違っているなら、来る年の選挙で私を再選するな」と言い切った人物である。その彼は再選はされなかった。敵国人と見られていた人々を弁護するのは、選挙で国民に選ばれねばならない者にとって、それは自殺行為であったろう。しかしラルフ知事はそれと知りつつも、敢えて人道的立場から日系人養護に立ったのである。残念ながら再選されなかったが、私たちの心に深く銘記されるべき人物である。国民の人気を得ようとしてあらゆる手段をこうじても、当選しようとする昨今の風潮にあって、ラルフ知事の勇気ある発言は今日、一段と香気を増してくるのである。

 話は少し(いや、大きく)ずれるが、日本にも同様な事があった。終戦時の首相であった鈴木貫太郎は、東京が敵のB二九の爆撃で焼け野原になっている最中に、ルーズベルト大統領が死んだと言うことを知って、アメリカ国民に対し、深い哀悼の意を表明している。ヒットラーはこの時とばかりに大統領を悪し様に訴えているが、鈴木首相はそうでなかった。この時の首相の言葉は世界を駈けめぐり、さすが礼儀正しい武士道精神の日本の首相として、アメリカは勿論のこと世界の新聞紙上に称賛されている。特に戦時中及び戦前を含めてヨーロッパの紙上で日本人が称賛されたというのは、ほとんど例がないという。鈴木首相も香気あふれる人物の一人と言えよう。

 さて、そのようにして日系人はバスに揺られてそれぞれの地に転住するのだが、では彼ら自身の心情は一体どういうものであったのだろう。ここに面白いデータがある。一世と二世の人口の比率である。それらは三五%と六五%であり、圧倒的に二世が多い。

 アメリカは在米日系人が敵側に回ってしまうことを危惧して、キャンプに転住させるのであるが、一世の男子で戦闘能力のある年代といえば、一万人にはほど遠い数字であったろうし、ましてや日系二世はアメリカの敵とはなり得なかったであろう。というのも日本人の性格的伝統として、彼らは他者と異なることを極端に嫌ったからである。つまり彼らは、アメリカの文化に溶けこまざるを得なかったのである。前述(第八章)したが、日本語を満足に話せる二世は、四千人の二世の志願兵の中で十五人しかいなかった。戦争という異常な体験の中で二世の生かる道は、アメリカ人以上にアメリカ人に成り切ること以外にはなかったのである。

第十三章 日系二世の尊い働き

―戦中篇(その四)─

 戦争という異常な体験の中で二世の生きる道は、アメリカ人に成り切ること以外になかった。と前章の終わりに書いたが、そのデモンストレーションは、二世部隊という形で表われることになる。

 一世や二世達は偏見と人種差別のあげくに太平洋戦争のために敵視されて、ついには転住所に入れられてしまい、こつこつと積み上げてきた財産も将来の希望も一切失ってしまうことになる。どんなに彼らはその現状に失望し、落胆したことであろう。日米戦争の最中で、日本に帰ることもままならず、またもし日本に帰ったとしても、敵国アメリカの言葉や風習に慣れた者が日本で気持ちよく受け入れられると言うことは至難の業であったろうし、結局、二世はこの地で生きてゆくしか道は開かれていなかったのである。

 しかし、二世の行く末がどのように展開されてゆくのかは実に暗澹たるものがあった。日系二世というアメリカ市民としてこの国で地位を得て生きてゆくために、そして何よりも日系人としての名誉奪回のためにも、彼らに残された道は、アメリカ軍人として命を駈けてアメリカに忠誠を誓うことであり、それこそ最善の道であると二世は考えたのである。この時の彼らの合言葉が「ゴー・フォー・ブローク」(当たって砕けろ)であった。

 そのような背景の中で志願をした彼らであったから最初から意気込みが違った。志願兵達はヨーロッパ前線に行く前のアメリカ本土での予備訓練時代からアメリカ軍史に前例を見ないといわれた程に、優秀で最強の軍団と言われたのである。

 その二世部隊の多くはハワイ出身であるが、その中の一人に現在ハワイ上院議員のダニエル井上氏がいる。彼はヨーロッパ戦線で片手を失うという重傷を負う。その彼はやがて上院議員としてハワイから立候補するのだが、対立候補の一人が井上氏に向かって、「おまえは日系人じゃないか。それなのに何でアメリカ上院に立候補するのか」と野次ったという。それに対して井上氏はこの時、失った手を差し向けて、「このなくなった手が、アメリカ国民であることを何よりも物語ってはいないだろうか」と反論したのであった。このときのスピーチが上院議員への花道となる。

 最強部隊と言われた二世部隊がヨーロッパ最前線で次々と戦果を上げることによって、次第に日本人の地位がアメリカで認められることになってくる。しかし、そのための代償はあまりにも高かった。六百五十名の尊い若者達の命が失われ、三千五百名近い負傷者が出ることになったのである。やがて戦いで生き残った彼らはワシントンに帰りコンスチチューション通りをトルーマン大統領の閲兵式に臨むのだが、まともな姿で行進する者がいなかったと言われた程に傷ついていた。それを観たアメリカ人に日系人の忠誠を疑う人はいなかったに違いない。と同時にその時の一世達の思いはどんなであったであろう。哀しいまでに勇敢であったわが子達に救われる思いがしたと共に、日系人としてのアイデンテティが確立されてゆくのを頼もしく思ったことであろうか。その心境たるや実に複雑なものがあったに違いない。それにしても彼らは実に哀しいまでに勇敢であったし、アメリカ人以上にアメリカ人であった。その理由を一世は痛いまでに知っているだけに、なおさら万感迫るものを感じたのではなかろうか。私達が今日あるのは、実に彼らの尊い血の犠牲があったからである。そのことはこの地に住む日本人として決して忘れてはならない尊い努めであろう。

 私達の先達の通ってきた歴史的背景の中でも、特に排斥と収容所生活とは避けて通れないものであり、その中で二世がどのように立ち上がったかは、私達の教団にとっても実に大きな要素を占めている。

 戦後、私達の教団は二世が一世に変わって台頭してくる。一世が西海岸に帰還して新しい生活に汲々とし、将来を模索する中で、二世達は一世に劣らず非常に伝道的であった。しかも超教派的に活躍するようになってゆく。その一つがJEMSであり、その中心的働き人はホーリネス教団の二世牧師たちである。私達が今日あるのも、戦後の混沌とした時代にあって一致して日系人伝道にあたった二世達の献身に負う所が多い。

第十四章 アメリカに仕えて生きる

―戦中篇(その五)─

 さて今回は戦時中のリロケーション・キャンプでの生活に就いて主に言及しよう。七つの州にわたって、十箇所のキャンプが設けられたが、それには十一万人以上の人々が強制的に入れられた。そのうちの一世は三五パーセントで、二世は六五パーセントであった。つまりキャンプに入れられた大半はアメリカ市民ということになる。裁判も何も為されず、一方的にしかも強制的にアメリカ市民である二世をキャンプに封じ込めたのである。市民としての権利もなにもあったものではない。そのような信じられないような事件が今からつい五十年前に起こったのである。

 実はこれら二世の半数は二十才代前後であった。彼らはアメリカで生まれ、そして育ったのであるから、文化も違い、しかも保守的な一世とは当然食違いが起こってくる。いわゆるコミュニケーション・ギャップである。実際、この一世と二世のギャップがキャンプ内での深刻な問題の一つであった。

 またキャンプでの生活はトイレもお風呂も洗濯も共同で使用しなくてはならず、隣に住む家族とを隔てる壁も形式だけのようなもので、お互いのプライバシーはないのも同様であった。家族中心の生活に慣れていた彼らにとって、それらの仕切りが取り去られてしまった生活は、実に混沌とした生活であったに違いない。また一世の間ですらも日本の勝利を信じる「勝ち組」とそれとは反対の「負け組」に分かれて抗争が展開され、時には両者の間で血なまぐさい闘いも起こっている。

 しかし中には自らアメリカに忠誠を誓って、我が子をアメリカ軍人として戦線に送り出すことをよしとして生きた日本人もいたのである。シヤトル出身のフランクという日系学生がいた。彼はアメリカ市民としてミネソタのカールトン大学から陸軍当局に兵役を申し出たのであるが、日系人であるが故に拒絶されてしまう。しかし彼の担当教授が陸軍当局へ強烈な抗議をしたことにより、彼はついに受け入れられ、勇躍して四四二部隊の一員としてイタリー戦線へ出兵するのである。しかし彼はそこで名誉の戦死を遂げてしまう。後日、カールトン大学は戦死した遺族へ手厚い記念帳を送ることにしたが、その企画がその父の耳に届くや、彼は丁重な礼状と共に金百ドルを大学に送り、引き続き学校の建築基金等に千ドル以上送ったのである。大学としてはそのような大金を献金して下さることもあり、お礼方々大学総長と同窓会長共々にシヤトルを訪れたのであるが、フランクの父、重村氏は実はシアトルのユニオン・ステーションの赤帽であった。彼は過去三九年の間、その駅の赤帽として労してこられたのである。彼は愛する子をアメリカのために捧げても少しも誇ることはなかったし、ただ黙々としてアメリカに仕えてきたのであった。重村氏と大学総長との対面は実に感動的であったという。日系の父として重村氏のような生き方をしてこられた人もいたのである。

 また話がずれてしまった。軌道修正をしよう。そのような混沌とした中で、ホーリネス教会のメンバーは通称アマチと云われたコロラド州のグラナダ・キャンプに集中している。一九四二年の沖本為一牧師の統計によると、三八家族が入れられており、ホーリネスの牧師も葛原定市牧師はじめ五名が入れられていた。次に多いのはハートマウンテンで一七名の家族が入れられいたが、ここでは一九四三年までホーリネスの牧師はいない(一九四三年に末広和一師がこのキャンプでホーリネス教会に所属している)。ポストン・キャンプには一三家族が入れられており沖本牧師と盲目の信徒伝道者であった新里慣一師の二人の伝道者がいた。半数以上のキャンプでホーリネスの牧師がいないこともあり、それらのキャンプ地には、他のキャンプにいる牧師達が巡回して、ホーリネス教会員を励ますことになる。 勿論キャンプでは、平時と同じように礼拝が守られ、聖会や特別集会もあった。特にマンザナーでは、一九四三年の秋の日曜日の特別集会には一二〇〇名もの出席者があったと記録されている。恐らく古今を通じて日系人の間では最大の出席者ではなかろうか。鉄条網の張りめぐらされたキャンプ生活ではあったが、クリスチャンの伝道活動はそれらの垣根を越えて浸透していたといえよう。

第十五章 立派な日本人と立派なアメリカ人

―戦中篇(その六)─

 現在、私の手もとに五十年前に青森県八戸市の上空で米軍艦載機からばら撒かれたB二九爆撃機の写真入りのビラがある。先年日本の母から送られてきたもので、父がとても大事にしていたものであったが、父の死後に母に無心して送ってもらったものである。父は戦争当時に八戸市で警察官であった。その時にたまたま米軍艦載機から撒かれたビラを集めておいたものである。そのビラの表にはB二九によって空襲される予定の都市名(小樽、秋田、八戸、福島、浦和、高山、岩国、鳥取、今治、都城、八幡、佐賀の十二都市)の名前が記されている。その都市の中に八戸も入っているので、爆撃前にばら撒いたものであった。

 そのB二九の写真が印刷してあるビラの裏側には「日本国民に告ぐ」という、戦争の早期終結を切々と訴えた清書の勧告書が書かれている。それは恐らく日系二世の手によって書かれたものである。句読点もなく、文章間隔もない。それに文章が少しぎくしゃくしていて、とても一世の書いたものとは思えない。

 つい先日、ラフ新報に「悔いなきわが青春」というタイトルで、平野清氏という帰米二世の手記がシリーズで載った。平野氏は降伏文書日本語翻訳文を直筆した人物である。その当時の模様を紙上に詳しくしたためているのが、日本語翻訳の苦労話をしているところから、平野氏のような帰米二世翻訳部員が前述のビラを書いたのであろう。

 一体、二世達はどのような心境でそれらの勧告文を書き上げたのであろう。父母が人里離れたキャンプで呻吟している中で、彼らの母国である日本を自分達の手で灰燼に帰そうとしていると思うにつけて、彼らは悩みに悩んだに違いない。その意味で二世程辛い悲しい選択を迫られた世代はないのではなかったろうかと思う。平野清氏は手記のなかで先のようにしたためているが、それは二世達が共通して心中に留めておいたものであろう。

 「一九四一年春、太平洋の風雲が急を告げて日米開戦は不可避の状況にあったころ、友人と二人で在サンフランシスコ日本領事館を訪れました。二人の若い領事に『君たちは日本で成長、教育を受けたと言っても、生まれたのはアメリカであり、現在アメリカに住んでいるのです。アメリカが君たちの国家なのです。アメリカのために尽くしてくれ給え。それが立派な日本人(日系人)のすることです。立派な日本人(日系人)になることは、立派なアメリカ人になることです』と諭されました。」

 先の領事の言葉を借りれば、二世はいわゆる立派なアメリカ人となろうとしたのであるが、現実にはそれ以外に方法はなかった。排他主義のど真ん中にある日本に帰るわけにも行かず、一方アメリカで生きて行くためには、いわゆる立派なアメリカ人でなければ生きる術はなかったからである。

 太平洋戦争の状況が次第にアメリカ軍に優勢になるにつれてキャンプに幽閉されていた人々はそこから解放されて、全米に散在するようになり、キャンプも次々と閉鎖されるようになっていった。それは一九四四年七月のことであり、終戦の一年以上も前のことである。

 アマチ・キャンプの葛原定市師は一九四三年にすでにシカゴに移っている。戦争勃発と共に施行された自由立退の期間内にその地に移住していたロサンゼルス教会員の吉田友次郎兄や松尾早次兄の働きを推し進めるために移られたのである。更には橋本泰師もその働きに加わり、黒田章師も終戦後にシカゴの神学校の学生として葛原師の働きを援けている。佐久間英師もシカゴのナザレン教会を借りて開拓伝道を始めている。しかし葛原師と橋本師は西海岸のホーリネス教会には戻らなかった。

 葛原千秋師によると、定市師がなぜロサンゼルスに戻らなかったかという理由は、「太平洋岸での働きは終わったので、今度は中西部に教会を建てることに使命を感じたのであろう」という事と、「成長しつつあるレーキサイド教会が葛原師を手放したくなかった」というのが、もう一つの理由だと述懐しておられる。戦争によって壊滅状態にある西海岸の諸教会は師と頼み、父とも頼んだ葛原師抜きで再建を迫られたのである。

第十六章 日本でも獄にあった私達の教職者

―戦中篇(その七)─

 さて、今回を最後にそろそろ戦時中のシリーズをしめくくりたいと思う。

 戦争勃発に伴い、ホーリネス教会も大きな混乱をきたした。幾つかの教会がしばらくの間、礼拝がもてなかったり、帰還者がいなかったりで、教会としての機能を失い閉鎖された教会もある。ハワイ島のヒロ教会、オアフ島のワヒアワ教会(一九四〇年に既に閉鎖)、センタービル教会、そしてモデスト教会(一九四九年に閉鎖)が閉鎖されている。特にモデスト教会はロサンゼルス教会に次ぐ礼拝出席者を誇っていただけに、その将来が嘱望されていた(ちなみにロサンゼルス教会の礼拝出席者が六三名で、モデスト教会は三八名であったが、祈祷会の出席ではロサンゼルスを六名も凌いで二一名となっている)。モデスト教会は戦後もしばらくは礼拝が守られたが、何せ帰還した家族が三家族しかなく、教会としての機能を最早なさなくなっていた。またサンファナンド教会やボールドウインパーク(現在のウェスト・コビナ)教会は戦後もしばらくは閉鎖されたままであった。

 西海岸に在住の日系人同胞は日米戦争による転住のために、全米に散らばってしまい。もう元のように西海岸に固まって住むというような状況ではなくなっていた。また多くの場合、帰る家も財産も失ってしまっていたし、また西海岸に帰る場合にも、偏見のただ中に帰るのであるから、それは大変な勇気を必要とした事であろう。日本人と共に伝道してきたアメリカ人宣教師でさえも、同国民の人目をはばかって、日系人を冷たくあしらうという悲しい事もあった程であるから、それは決死の覚悟と言えよう。

 しかし勿論、フレンド派の人々のように、アメリカの世論はどうあれ、転住の当初から日系人に対して弁当等を用意して暖かい配慮をして下さったグループもいた。その中でもニコルソン宣教師のように、転住所に閉じ込められている日系人のために。身を粉にして人道的な配慮をして下さった方々のいたこともつけ加えておこう。

 さてここで戦時中の項を締め括るにあたり、どうしても記さなくてはならない事がある。それは私達の同胞が転住所(一般の日本人や日系人の収容されていた所)、あるいは収容所(特に日本と親しい関係にあった人々が収容されていた所)に入れられている時に、海の彼方の日本でも信仰ゆえに同じく獄に入れられていた人々がいたという悲劇であり、何よりも私達の北米ホーリネス教会の創立者の一人の岡本吾市師が獄にあったという事実である。

 それは一九四二年の六月二六日に始まるホーリネス系教会教職者達九七名の一斉検挙に始まる。さらに第二次検挙で二十名、海外の教師二十名、計百三十四名が検挙されたのである。その検挙の理由たるや治安維持法違反という名目であり、キリストの再臨の信仰を反天皇崇拝と結びつけて反国家守護であるとしたものである。この投獄によって、横浜の菅野鋭牧師、大阪の小出朋冶牧師、弘前の辻啓造牧師達は獄死している。またこの北米には一九三〇年に来られて各地で巡回伝道をして下さった伊藤馨牧師(「霊声」の四〇号に記されている)は終戦の十月十日までの四年間も札幌刑務所に入られている。

 この刑務所生活は実に悲惨であった。『嵐の中の牧師達』を記した辻宣教牧師(一九八七年にサンタバーバラ夏期修養会の主講師であり、昨年まで日本基督教団議長であったが、一九九四年夏に召されている。辻師の祖父は日本ホーリネス教団の初代監督の中田重治である。)によって詳細に当時の教会の状況が如実に記されている。その内容は、「クリスチャンの母体であった日本基督教団からは、ホーリネス教会が正統派教会でないと断じられ、見捨てられるという孤立無援の中で、辻啓造牧師は青森刑務所内で殉死していった」というものである。それは家族にとっては無念の一言では言い切れない深く辛いものであったに違いない。

 北米ホーリネス教会(戦前の呼称は「教団」ではなく、「教会」)もこの「四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)を強調していた。その信仰のゆえに、北米ホーリネス教会の創立者の一人であった岡本吾市師が一九二九年に日本に帰国してからは、日本ホーリネス教会の教職者の一員となり、広島で一年半にわたり獄につながれている。一世、二世がアメリカの転住所であえいでいる時に、日本でも獄にあって呻吟していた私達の創立者の一人がいたというのは万感胸に迫るものがある。

 第二次大戦終決以前に既に日系人は転住所から解放されてはいたが、一世にとっての前途は実に多難であった。しかしそれはまた二世台頭の時代でもあった。日系人教会はいよいよ世代交替の時代を迎えようとしていた。

第十七章 キャンプから羽ばたく人々

―戦中篇(その八)─

 さて、いよいよ戦時中を締めくくりたいと思うのだが、そのテキストとなるべき合本「霊声」を調べれば調べる程、そこには宝のようなメッセ−ジが幾つも秘められて、それが泉のように湧いてくる。そこで今少し戦時中のものをしたためてみようと思う。

 太平洋戦争当時に収容されていた信徒、教職者達の状況については、「霊声」に詳しく書かれている。それは監督の葛原定市先生が発行人となり、アリゾナ州ポストン・キャンプの沖本為一先生が書記となって執筆されたものである。ガリ刷りの機関紙は、各キャンプの様子とか、大学入学、入隊、結婚、出産、死亡広告、病者、転住等の個人消息、牧師の消息と問安の様子、そしてメッセージが掲載されているが、それらのニュースは、キャンプに幽閉されていたホーリネスの群れをどれほど振るい立たせたで事であろうか。

 戦時中に書かれた「霊声」は、終戦間近い一九四三年末からのようだ(不確かな言い方なのは、戦時中に初めて発行された「霊声」が紛失しているからである)。大戦前の機関紙は、一九四一年六月のことであり、真珠湾攻撃の半年前の事である。つまり戦争という混沌を経て再発行までには二年近くを要したわけである。太平洋戦争はたけなわであったが、戦況はアメリカ軍に優勢とみてか、幽閉されていた一世、二世はキャンプから開放され初めていて、一九四三年にはコロラド州グラナダ(アマチ)キャンプの葛原定市先生ご一家がシカゴに移られている。実は、既に自由立ち退きの期間(一九四二年三月のほぼ一ヶ月間だけ)にロサンゼルスから移っていた歯科医の吉田友次郎兄と、松田早次兄両家族達の居られたシカゴに合流した訳である。もともとロサンゼルス教会出身だっただけに、キャンプに閉じ込められている葛原牧師達をお呼びしたいと思ったのは自然の成り行きであったとも云えよう。

 また若い二世達は、軍入隊とか、全米各地の大学での学びのために出て行く場合が多かったようだ。ちなみにアマチ・キャンプには、葛原ファミリー、八尋ジョージ、黒田章、橋本泰の各牧師、献身者達をはじめとする二四家族と、二一名の個人が蟄居していたが、軍隊に服務中の者達は、葛原虔他一四名が名を連ねている。

 また「鶴さん、亀さん」で親しまれた長谷川亀雄兄・鶴姉のように令嬢、光子姉の大学先の都合で、ハートマウンテン転住所からフィラデルフィア市に移る場合もあった。特にお二人はロサンゼルス教会の成長発展のために尽力し、また鶴姉はロサンゼルス教会の日曜学校教師として長い間労され、更に献身すべく、バイオラ大学を一九四七年に卒業し、戦後はボールドウィン教会(ウェスト・コビナ教会の前身)の主任として任命されている。

 シカゴのレーキサイド教会から、毎月「教友報」が送られてくるのだが、つい先月の個人消息の中に、吉田友次郎兄の召天の記事があった。一二月二一日早朝のことである。享年九七歳であった。吉田兄はレーキサイド教会の創立に係わった一人であったが、その後、シカゴ近郊のデボン・イエス・キリスト教会に移られ、その教会で葬儀が執行されている。彼はそのように、長年シカゴでの日系教会の発展成長のために、献身して来られた兄弟であり、また長年、葛原ファミリーの牧会を助けて来られた方である。兄弟の召天によって、尚一層の一世の時代との隔世の感を禁じえないのである。

 ちなみに一〇個所ある転住所の中で、アーカンソー州のジェローム・キャンプが一九四四年の六月に最初に閉鎖されている。またカリフォルニア州とオレゴン州との国境付近にあるツールレーク・キャンプは、終戦になってもまだ閉鎖されず、一九四六年の三月まで「勝ち組み」と言われ、日本には必ず神風が吹いて勝利に導くと最後まで信じていた人たちが収容されていた。彼らはアメリカ側からみれば、一番過激なグループであった訳である。

 一九四三年、末広栄司前監督の長兄、和市師はアズサ大学を卒業後、ホーリネス教会教役者として献身し、葛原定市師より按手を授けられている。一九四四年の一〇八号の「霊声」には、葛原千秋師が、「さる三月、シカゴ市において、父君定市師の司式の下に、渡辺ケート嬢と聖典を挙げられました」とある。また同年発行の一〇九号には、英語部牧師として赴任することになる黒田章師がシカゴのホイートン大学を卒業し、シカゴ教会青年会の指導に当たることになったとある。厭わしい戦争の最中にも、幾つもの慶事がどれだけ一世、二世のクリスチャンの群れを励ましたであろう。戦争の行方はどうあれ、主のために立ち上がった青年達は、それからのホ−リネス教会の将来を暗示するかのように、希望に満ちた大きな発展を遂げる礎石となってゆく。

第十八章 殉教精神で仕えた人々

―戦後篇(その一)─

 太平洋戦争はたけなわであったが、一九四三年の一月から、収容所に幽閉されていた人々は、出所申請を提出することによって解放されることになる。そこで十個所のリロケーション・キャンプに幽閉されていた十二万人にも及ぶ人々は、それぞれの希望する地へ帰ってゆくことになる。この開放によって以前、西海岸に九十%も集中して住んでいた一世、二世は全米に散在することになった。もちろん西海岸に帰られた方も少なからずいた訳だが、既に三年半以上も家主の居なかった家は荒れ放題であったり、あるいは破壊し尽くされていたが、中には近隣の住民達が、彼らの友人であった日系人の家々を自分の家のように守ってくれた場合も少なからずあったのである。そんな中で、キャンプから帰還する人達のために教会が中心となってその門戸を開放したのである。

 南加教会連盟は率先して、すべてのキリスト教会がその門戸を開くように尽力した。メリノール・カトリック教会はもとより、地元アメリカ人教会も協力を惜しまなかったが、その中でもっとも早く準備され、そして大きかったものは百五十名も収容できる「エヴァーグリーン・ホステル」と呼ばれるボイル・ハイツにある建物で、クエーカーと呼ばれるフレンド派の人々によって運営されていたものである。クエーカーの人々は、戦争の始まった時点から既に、敵国人であった一世、二世に対して常に暖かい配慮を惜しまず、勇敢なまでに援助の手を差し伸べてくれたのであったが、キャンプから帰還する人々に対しても、またもや多大な援助を惜しまなかったのである。ちなみに八十年前、ホイッテアのある教会を借りて集会が持たれていた時にリヴァイバルが起こり、それが燃える炎となって東洋宣教会・羅府教会が発足したのであるが、その時の教会も実はフレンド派の教会であった。私たちは、彼らに多くの愛の負い目がある

 しかし、すべての教会がその門戸を開いたのではない。救世軍はアメリカの世論を恐れてか、帰還する人々に対してそのドアーを開いてはくれなかった。それがクリスチャンに対する印象を悪くしたのである。救世軍は、キャンプからの帰還者に門戸を開かなかったというので、未だ日系人の中では立ち上がれないでいる。またメソジストの牧師や、北米ホーリネス教会に関係する宣教師の中でさえも帰還する一世の訪問を拒んだ人達もいたのである。こんな時こそ最善の伝道であったものをと悔やまれるのであるが・・。

 一九四五年の三月に、八尋ジョージ牧師はコロラドのアマチ・キャンプからロサンゼルスに帰ってきた。彼は二世牧師であり、初代の牧師達の中では、唯ひとり土地家屋の所有が許されていた人物であったので、彼の名義になっている牧師館や、ロサンゼルス教会の開放に彼がみずからすすんで挺身したのである。というのも、当時、教会も牧師館も貸してあり、すぐには空けてもらえなかったからである。しかし、次々と建物が開放されたので、帰還してきた人達のために祈り会が始められたり、宿泊所として用いられることになったのである。やがて、そこは「ホーリネス・ホステル」と呼ばれ、一九四九年一月まで開放されたのであった。このホステルを利用した人達の中には、サンファナンド教会の英語部牧師であった木村連牧師ファミリーや、長い間ロサンゼルス教会の信徒リーダーであった桑原軍作ファミリー等がいる。そんな中、八尋牧師は自分の生活を支えるために日中はガーデナーとして働き、そのかたわら帰還する人々の世話をするという状態であった。彼はそのために健康を害し、その命を短めたといわれる。私たちが今日あるのは、彼の多大な献身によるところが多い。八尋先生は一九六三年に六八歳で召されている。

 一九四五年九月には、北米ホーリネス教団創立者の一人である岡本吾市先生が、原爆投下一ヶ月後の広島で、多雨のため地すべりが起き、そのためにご夫人と四人の子供達と共に生き埋めになって死亡するという悲しい出来事が起っている。お二人の娘さん達だけは生き残ることができた。先生は十七歳の時にアメリカにいた家族に会うために渡米し、英語を学ぶために小学校に入っている。やがてホイッティア教会に導かれ、フレンド派の神学校であるハンチントン聖書学校に入学をした。先生は広島県の出身であり、牧師となってからも広島弁が抜けないで、「何もかもじゃけん」という言葉が耳についているとは中田羽後先生の弁である。葛原定市先生が来られてからは、ガーデナーをして葛原先生家族と教会を支えている。最初の派遣教会はモデストであった。一九二九年には日本に帰り、日本ホーリネス教団に所属して中田重治監督の五女、豊子と結婚している。戦時中はその信仰のゆえに獄に一年半も入れられていた。彼の墓石には「彼は己が命を顧みずキリスト・イエスの為に働けり」と刻まれている。

 フレンド派の人達はもとより、八尋先生にしろ、岡本先生にしろ、主のために文字通り命を捧げて下さった方々である。まさに殉教の精神で主に仕えられた方々であった。主のみ名を崇める次第である。

第十九章 教団再建に向けて

―戦後篇(その二)─

 前回、フレンド派の人々が私達日系人に対して、寛大であったほとんど唯一のアメリカ人教会ということを記したが、たまたま、ラミラダにフレンド派の教会があると人づてに聞いたので連絡をしてみた。一つには、八十年前にホイッテアーのフレンド派の教会で始まった私達北米ホーリネス教会のルーツを調べたかった(ホイッテアーのフレンド派の教会が日本人伝道に門戸を開いてくれたことによって、私達の教会が産声を上げた)ことと、もう一つは、フレンド派の教会が排斥のただ中にあった一世、二世に対して、どうして寛大であり得たのかということを、知りたかったのである。

 何人かの人達を通して、やっとその教会の図書館司書に話すことが出来て上記のことを伺ってみたのだが、彼女はかつてホイッテアーに彼らの姉妹教会があったことも、彼らが日本人や日系人に対して親切の限りを尽くして援助をしてくれたことも知らなかった。ただ彼女は、「私達の教会が社会正義に対して勇敢に闘ってきたことは、他の事例に関してもありました」と語っていたので、彼らの信仰として、弱者や虐げられている人達に援助をするという社会正義に対する信仰的伝統が受け継がれていたのであろう。その電話での会話の最後に、「あなたがたが日本人や日系人に対してとても親切にしてくれた事を心から神に感謝をしています」と言わせていただいた。いつか私達の教団並びに、日系人教会、日系人社会が近い将来に、彼らに対して何らかの謝意を表する時が来るようにと祈らされている。

 それまで転住所に幽閉されていた人達や、東部、中西部に散在していた人達を迎えたロサンゼルス教会は、「ホーリネス・ホステル」と呼ばれたが、その当時の様子を末広栄司牧師は、次のように述懐している。
「わたしは一九四五年三月に帰ってきましたが、ロサンゼルス教会の建物は、インディアンに貸しておりましたので、私達の集会は出来ずにおりました。三五番街と二八番街の牧師館も貸しておりました。そこでわたし達家族はアメリカ人の友人宅に住まわせてもらい、私は生活費を得るため、ガーデナーの仕事を始めることになったのです。でも次第に今まで貸しておりました建物が空いてくるようになりましたので、祈り会が始まりました。またロサンゼルス教会の隣は、他の教団所属の教会でしたが、それが空きましたので、今度はそれをホステルとして利用しました。会員が増えるにつれて礼拝がもたれ、家庭集会も始まるようになったのです」(「喜びの泉」一九七二年)

 一九四六年八月にロサンゼルス教会で開かれた戦後最初の教団総会の写真は実に興味深い。その中の牧師達の顔ぶれをご紹介しよう。前列右から、黒田章師、小原十三司師(淀橋教会牧師で、沖本妙子先生ご尊父)、沖本為一師、新里貫一師(盲目の当教団巡回伝道者)、末広栄司師、葛原定市師、八尋ジョージ師、佐久間英師、福田吉郎師、篠田ダニエル師、木村連師の面々である。恐らく小原先生が北米を問安するに当って、教団総会の時期を選ばれたのではなかろうか。この写真には葛原定市師が中央に座しているが、先生はこの総会で名誉監督に推され、末広先生が監督になったものと思われる。葛原先生はシカゴで伝道するようになってから、、佐久間先生、葛原千秋先生、橋本泰先生と共に、「シカゴ特殊伝道」と言って、かの地に残って伝道することを決意していたようである。

 一九四七年の機関紙「霊声」には、シアトルに末広栄司師のご兄弟、和市師が牧師として遣わされているとある。シアトル伝道は一九三四年に末広栄司先生によって始められているが、一九六六年には残念ながら閉鎖されている。先日、卒寿を超えて尚健在なロサンゼルス教会員の古谷轟兄姉(現在はご子息の所属されるフリーメソジスト教会に通っておられる)のお宅に、教団の歴史をヴィデオ撮りするためのインタビューに行った所、かつて名古屋市近郊の犬山にある「明治村」を訪れた時の写真を見せてくれた。そこにはシアトル伝道の拠点であった当時のホーリネス教会の建物が、北米からの唯一の建築物として残されている。私自身は明治村には行ったことはないが、かつて教団の歴史をしたためた時に、その様子を「シアトル・タイムズ」で読んでいたので、その写真を見た時に、私はあたかも嫁入りした娘に久しぶりで会うかのような、ほのかで甘美な錯覚を覚えたのである。明治村の北米で唯一の代表建築物が、かつての私達の伝道の拠点であったとは誰が想像し得たであろう。これを神のなさるくすしいみ業と言わずに、何と言えばよいのであろうか。

第二十章 一世から二世への世代交代

―戦後篇(その三)─

 戦後、まもなく教会活動が再開されることによって、著しい働きが見られたものに、幾つか上げられるが、その一つは二世が一世に変ってリーダーシップを取り始めたということである。一世の礼拝出席者数は、一九六二年までは、一世が多かったのであるが、一九六四年以来逆転している。ちなみに、一九六四年の礼拝出席者は日語部が四三三名で、英語部が四五八名となっている。ロサンゼルスに教会が始まってから四十年を経て、ようやく一世から二世への世代交代を見た訳である。その理由としては、もちろん一世の子供達が英語部に流れるという自然発生的要素も、大きな要因ではあるが、それにもまして、二世の霊的リーダーシップが大きなパートを占めていることも否めない事実である。礼拝献金に関しては、礼拝出席人数に見る世代交代よりも数年早く、一九六〇年にその顕著な差が見られる。ちなみに同年の日語部の年間献金総額は七万千五百五十九ドルであり、英語部のそれは七万八千三百五十一ドルである。四十年間にわたった一世の時代がようやく終わり、新しい世代のリーダーシップが台頭することになる。

 そもそも、二世の台頭は時代の必然であった。戦前までは子供達は日本語を話す親たちの下にあったので、英語による礼拝はなかったのである。しかし英語の日曜学校というものはあった。ロサンゼルス教会では葛原千秋先生によって、子供達を集めて持った集会が英語によるもので、多い時には六十〜七十名も集まったと聞く。しかし、戦時中に中西部に設けられた各強制収容所に入れられたクリスチャン達は、他の様々な教団のクリスチャンとの合同の礼拝を経験する。もちろん英語部と日語部とに分かれて礼拝がもたれた訳だが、そこでは英語礼拝を初めて経験した二世の日曜学校の子供達も少なからずいたであろうことは、想像に難くない。

 北米ホーリネス教団での最初の英語による礼拝は、戦後直後の一九四五年に、八尋ジョージ先生によってロサンゼルス教会で始まっている。八尋先生は教団の創始者の一人であり、もとより二世であるから、本来は日本語よりも英語の方が良かったのである。同時に、それらの創始者によって育てられた、いわゆる「二世牧師」である篠田ダン先生も、じつは八尋先生と同じ一九四五年に英語部の牧師として、サンロレンゾ教会に遣わされている。八尋先生の後のロサンゼルス教会には、末広先生が日英両語部の牧師として遣わされ、英語部の牧師としては一年間奉仕された後で、黒田章先生が一九四七年に後任として遣わされている。黒田先生は葛原千秋先生と共に、戦争が始まった直後の一九四二年、日系人の将来を憂いた東洋宣教会総理のカウマン夫人によって按手礼を授けられている。

 戦後の日系人教会の著しい働きの第二は、二世牧師のヴィジョンと宣教の拡大である。例えば一九四六に始まった若い二世達の朝祷会フェローシップが実と結んで、一九五〇年にマウント・ハーモン修養会となり、それがやがてはじぇJEMS(Japanese Evangelical Missionary Society)になる。この二世達の働きに関係したホーリネス教団関係の牧師達としては、篠田ダン先生、常石アーサー先生、橋本泰先生(戦後はホーリネス教団に所属しなかった)、木村連先生達である。実にこれらの日系人教会の中心的な働きの背後には、ホーリネス教会の牧師達が大きく参与していたのである。

 著しい働きの第三は、一九五四年に私たちの教団の政治形態が、監督制から委員会制に移ったことである。それまでは監督が牧師の転任をはじめとして、全ての教団の政治決定に参与していたのである。リーダーシップがうまく発揮されている時はいいのだが、同時にまた多くの弊害もあった。特に牧師の転任に関して、一方的な決定がなされたこともあり、牧師達や諸教会の中から、監督制に対する憂慮の声が浮かび上がってきていたのである。

 ちなみに、葛原定市先生が初代北米ホーリネス教会監督であったのだが、この教団が始まった一九二〇年から監督であった訳ではない。私たちの教団に監督が生まれたのは、日本ホーリネス教会で中田重治監督によって分裂問題が起った時に、北米としては、その事件に関わることをよしとせず、自立して北米独自の道を歩もうと決心した一九三五年である。同年四月の「霊声」の消息に以下のように記されている。

 「日本教会のよき諒解のもとに、その管理を離れて自治自足の形となりたるわが教会は、東洋宣教会北米日本人ホーリネス教会の名称のもとに、去る一月の第一回総会にて監督政治を採用し、満場一致、葛原師を監督に選挙」とある。つまりそれまでの私たちの教会は、日本ホーリネス教会(戦前は「教団」と呼ばなかった)の傘下にあった訳である。

第二一章 教団の拡張時代

―戦後篇(その四)─

 前回は、戦後の一九四五年から一九六二年までの、教会の三つの著しい働きについて記した。それは教団の堅実な成長への転換期とも云える時代であった。でも、この頃から教団としての全体的な働きよりも、それぞれのローカル教会の働きが顕著になり、全体として記すことが困難になってくる。その顕著な働きは教団政治形態が、監督制から委員会制に移行したということからも判断できよう。つまり、一人の監督が全体を見て決断を下すというのではなく、複数の経験ある者達が監理するようになった訳であるが、それは各個教会の自立性が尊ばれ、それぞれの牧師の主体性が重んじられねばならないという考えから生じたものである。

 さて一九六三年頃からは、教団の拡張時代が到来する。それは一九八七年まで続くが、特に一九七九年には日語部、英語部の礼拝出席総数が二千名を越えており、拡張時代といえるに相応しい成長が見られる。英語部が五百名を超えたのは一九六五年であり、日語部が五百名を越えたのはそれから十一年後の一九七六年のことである。

 一九六五年に吹上信一先生は葛原定市先生や佐久間英先生の後任として、シカゴ南部のホーリネス教会に赴任する。しかし、教会の近隣の多くの日本人がシカゴの他の地区に移動してしまった事もあり、四年後の一九六九年には閉鎖を余儀なくされ、残った人々は葛原先生の牧会されるレーキサイド教会に合流をする事になる。その年に吹上先生はサンファナンド教会に任命されている。

 一九七三年には、とても興味深い出来事が起っている。フリー・メソジスト教会から、一緒にならないかとのプロポーズを受けたのである。教義面でも共通事項が多くあり、戦前にあった青年修養会などは一緒にしていたほどである。また戦時中にはホーリネス教会と共に、長老教会やバプテスト教会という、いわゆるメイン・ラインからは熱狂的だと言われ、白眼視されていたこともあって、彼らには同じ痛みを分かち合った者同士という「よしみ」があったのであろう。そこで、いざマリブにあるリトリート・センターで膝を突き合わせて、「お見合い」ということになったのだが、それ以上は進展しなかったようである。でもこのプロポーズの話、ちょいと惜しいとは思いません?

 この一九七三年には福田吉郎先生が召されている。福田先生は島根県の出身で、一九二〇年代後半に渡米している。その直後にロサンゼルス教会の伝道活動で信仰に導かれている。教職者としては一九三〇年のサンディエゴ教会に始まり、ホノルル教会、そしてサンロレンゾ教会に任命されている。更に北加においてサンタクララ教会の萌芽となったキャンベル教会やサニーベール教会の教会開拓にあたっている。ホーリネス教団には三六年間にわたって仕えて下さった。更に引退後も近隣の日系人教会のために労されている。先生は実に信仰一徹であった。ハート・アタックのため八五才で召されている。
また同年一九七三年には末広和市先生も召されている。先生は教団第二代監督であられた末広栄司先生の長兄にあたり、船乗りとしてシアトルに来た時に、船からジャンプして上陸したというツワモノである。そういう人たちを「ジャンパー」と言ったそうな。なんとも鷹揚な話ではないか。当時はそれで上陸出来たから面白い。先生は一九二一年に南加に来られ、路傍伝道によって救われる。戦時中はハート・マウンテン転住所に送られ、そこでホーリネス教団に所属している。一九四七年にはシアトルに遣わされて十六年間奉職された。享年七八才であった。

 一九七五年には平野俊雄先生が七八歳で召されている。教団創立に関わった一人である。先生は一八九七年に広島県で生まれた。お父さんの呼び寄せで、十六歳の時にハワイにわたりサトウキビ畑で働く。その後ヒロ市内の学校の寄宿舎の聖書クラスを通して信仰に目覚める。そこで更に深い聖書の学びの必要を示されて、バイオラ大学の前身であるロサンゼルス聖書学校に入学のために本土に来た時、中田羽後先生の出迎えを受けたのだが、それが羅府ホーリネス教会発足に関わる出会いとなった。その後ホーリネス教会の教職者となり、一九二七年まで奉職する。それからは独立して教会開拓にあたり、それが後にホノルル・ホーリネス教会となる。一九三八年からはハワイのオリヴェト・バプテスト教会の教職者として奉職され、ラジオ伝道の面でも尊いご用をされている。平野先生はまたチャールズという英語名で呼ばれるが、これは東洋宣教会総理のカウマン夫人が、夫の亡き後、ご主人に似ている平野先生に「主人の名前を付けていいか」と言った所にその由来がある。平野夫人はハワイにご健在でおられる。

 一九七七年には石野幹夫先生が召されている。ホーリネス教団では十七年間労して下さった。先生は日本で宣教師を通して信仰に入られている。バークレーの神学校を卒業後に同市の組合教会に奉職され、その後ハリウッドの独立教会に遣わされている。戦後はユタ州から南加のエルモンテに移られ、ボールドウィンパーク教会(ウエスト・コビナ教会の前身)の戦後の開拓に従事されていた長谷川亀雄兄・鶴姉の家庭集会に導かれる。一九四九年にはホーリネス教団に所属し、ボールドウィンパーク教会に任命されている。以後ホノルル教会、そして再びサンゲーブル教会(ウエスト・コビナ教会の前身)に戻られて牧会をされた。実に謙遜で、魂を心から愛する先生であった。

 一九七八年は北米宣教百年記念大会が北加を中心にして行われ、様々な催し物が開かれた。ちなみに南加での宣教活動は北加より十年遅れている。この年に発表された日系教会統計資料によると、教会数においては合同メソジスト教会が断然多く、次が合同長老教会で、私達のホーリネス教会が三番目に多い。ホーリネス教会がスタートした一九二〇年には、南加には既に二十余りの教会が存在していた。それが成長率では一番になり、数的には全米でも三番目になるまで成長してきたのである。

 一九七九年は創設以来、北米ホーリネス教団にとって一つの大きな節目であったと言える。というのはOMSI(東洋宣教会インターナショナル)から「ホーリネスという名称の変更をしてはどうか」と云う薦めがあり、それを受けてホーリネス教団としては、各個教会の決議と判断で、自由に変更出きるようになったからである。ホーリネスという名称は、ここアメリカでは、偏狂的意味に捕らえられ、誤解されやすいからである。だから、「どんな教会か」と問われる度ごとに、いちいち教会教義の説明をしなくてはならないという不便さが生じていた。現在ホーネス教会の名前を維持しているのは、ロサンゼルス教会、サンファナンド教会、ウエスト・ロサンゼルス教会の三教会のみである。

 一九八一年には吉本熊治兄が九五歳で召されている。早稲田での学生時代に信仰を持ち、渡米してからはセンテナリー・メソジスト教会のメンバーであったが、信仰熱心な桑原軍作兄によってロサンゼルス教会に導かれ、一九三七年からはウエスト・ロサンゼルス教会開拓のために尽力されてきた。戦後も同教会のために尽くし、愛兄は六九歳の時、信徒伝道者としてウエスト・ロサンゼルス教会に任命されている。十年間というもの、忠実に教会のご奉仕をして下さり、教会の礎石として実に尊い働きをして下さった。

 一九八七年には関口五十六牧師が五一歳にして召されている。彼はよく言ったものである。「日本には三人の五十六がいた」と。統計的に本当かどうか分からないが、それにしても若くして召されていった。彼は実に皆から愛された人物であった。彼の葬儀は辛かった。皆が泣いた。慟哭した。特に娘さんのジャネットのあどけなさが痛々しかった。そして思った。五十六なのだから、せめて五六才まで生きて欲しかったと。

第二二章 頑固なまでのオリジン

―戦後篇(その五)─

 今回も前回と同じく、一九八七年までの主な出来事について記そう。この期間は教団の拡張期にあたるが、この期間のハイライトは何と言っても、私達北米ホーリネス教団の初代監督であった葛原定市先生が、一九八六年七月のシカゴにおいて百歳のお誕生日を迎えられたことである。私の手もとにはその時の新聞の切り抜きがある。その中で葛原先生は、百歳のお祝いに駆けつけた人々に向って、「わたしの前には暗闇というものがないのです。ただ、輝くばかりの光があるだけです」と語られている。先生の信仰がいかに希望に満ちたものであるかが、その一言の中に散見できるというものである。

 さてその百歳の時の事である。ご長男の千秋先生が私達にしばしば語られた内容であるが、静養先の次女の郁恵姉宅にご子息全員が集まった時、葛原先生は彼らに向って、「自分は牧師として、神様のご用のため、全身全霊を捧げたために、あなた達には行き届かなかった。済まなかった。許してくれるか」と言って、一人一人に許しを求め、相手が「はい」と言うまでは、そこを離れなかったというエピソードがある。父親として、子供達への配慮が行き届かなかったとは、先生の子供達の時代であるから、その当時から六十年も七十年も前のことである。でも、それを百歳になるまで心に留めておられたというのは、先生にとって生涯それが心の痛みであったのだろう。「伝道とは子供を抱くことだ」とある説教者が言ったのを聞いた事があるが、葛原先生はその生涯を終えるにあたって、最後の伝道をしようとされたのである。先生の誠実さがほろりとこぼれるような、そんな麗しい出来事ではないか。

 葛原先生の百歳の誕生祝いはロサンゼルス教会でも開かれていて、その時の記念として、これまでの北米ホーリネス教団の機関紙「霊声」が合本として出版されている。これは一九二二年から一九七九年まで半世紀以上のものを集めたもので、わが教団の初期からの機関紙を蒐集したものである。現在はこれが私達の教団史の全貌を知る唯一のてがかりとなっている。葛原定市先生は翌年の一九八八年三月十一日に百一歳で召されているが、その年の七月発行の「れいせい」には、葛原先生の特集号が掲載されている。それを読み返しながら私は、昨年シカゴを訪れた時に定市先生の終(つい)の棲家となった郁恵姉宅を訪れた時の事を思い浮かべていた。二階の窓から見える広い前庭の樹々の間からは、シカゴの原野がまだ所どころに見え隠れしていて、何頭もの鹿が草花をついばんでいた。それは実に絵に書いたような牧歌的な風景であった。「太平洋沿岸の聖徒」ともいわれた器である。そこで先生は、幾度となく来し方行末を思い、私達カリフォル二アに住む者達のために絶えず執り成しの祈りを捧げて下さったに違いない。そんな葛原先生の召天によって、一世の時代との隔世の感を強くしたのは何も私だけではあるまい。

 ちょいと脱線してしまうが、ご勘弁願おう。先日、私達の教会のリトリートがあり、北米ホーリネス教団の歴史についてこんなクイズを出した。それは「私達の教団には過去、何人の監督がいたか」という質問である。その中で二人という答えと、三人という二種類の答えが返ってきた。私は嬉しかった。というのは両方とも正しかったからである。もちろん葛原定市先生が戦前の監督であり、戦後は末広栄司先生が二代目の監督であるということはホーリネス教会員なら誰でも知っている。だから監督の数は北米ホーリネス教団に関しては二人だと言える。しかし、葛原先生が北米ホーリネス教会の監督に就任したのは一九三五年である。つまり北米ホーリネス教会が始まった一九二一からそれまでの十四年間は、北米ホーリネス教会は日本ホーリネス教会の管理の下にあった訳である。だから厳密に言えば、当初は中田監督のもとにあったというのが正解である。なぜ一九三五年に独立したかといえば、日本ホーリネス教会の分裂に伴い、その問題に関わることを恐れて独立することになったからである。ブラジルも私達と歩調を合わせている(いや、私達が合わせていただいたと言った方が良いであろう)。

 さて、この一九八六年は、黒田章先生が四四年間の牧会を経て引退されている。黒田先生は英語部牧師としては教団の二人目の英語部牧師であり、一九四七年に最初の牧会先ロサンゼルス教会に就任している(「北米ホーリネス教団史」の英語版では最初の二世牧師になっているが、それは間違いでした!)。もっとも黒田先生は英語部としては、最初に按手礼を受けた牧師である。ちなみに教団の最初の二世牧師は八尋ジョージ先生であり、ロサンゼルスとサンディエゴ教会の日英両語部の牧師であった。英語部だけの牧師としては、篠田ダニエル先生が教団の最初の牧師であり、一九四五年にサンロレンゾ教会に就任している。先生は一九九〇年に引退するまで、四六年の長きにわたって教団に遣えて下さったのである。しかもその全期間、無報酬であった。もちろん、ご自分でナースリーの経営をしておられたとは言え、何という献身の生涯であろうか!

 ところで、黒田先生はいつも牧師達の集まるリトリートなどで、北米ホーリネス教団について語る時など、「私達の教団は土着の教会だ」とよく言ったものである。他の日系教会や教団の多くが白人教会や、日本本土からの援助を受けている中で、「誰の世話にもならず、一銭の援助も受けず、一世と二世の手によって、まったくのゼロから始まった群」という意味で、黒田先生は「土着の教会」と言ったのである。その事を黒田師はいつも誇りに思い、絶えず私達後輩にその事を語り続けてきた。私はこの黒田先生の言葉が大好きである。私達の北米ホーリネス教団はその「頑固なまでのオリジン」にあったのである。そんな教団が私は好きである。

第二三章 ホーリネスは愛を説く

―戦後篇(その六)─

 さて、戦後篇の最後の年代区分は一九八八年から現在までにまとめることが出来よう。この年の教団総会において教団レベルでのリニューアルを祈ろうと立ち上がったのである。これは今までにはなかった霊の動きである。それから二年後に、マリブにあるキャンプ・ヘス・クレーマーで最初の教団リトリートが開かれ、二百名近い参加者があった。このためにCVCというヴィジョン委員会が中心となって、この働きを進めてきた。そして、これがきっかけとなって、ローカル教会レベルで、リトリートが持たれるようになってゆく。

 リトリートが持たれるきっかけは、教団のリーダー達が、教会内外の霊的枯渇を感じ、霊的一致の困難さを覚えていたために、その刷新の急務を示されたからである。ホーリネス教会がこれから新しい世紀に向って前進してゆくためには、霊的に整えられなくてはならないからだ。この成果は大きかった。多くの参加者が霊的な世界に対して目覚めると同時に、聖霊によってお互いは一つなのだという意識が生まれてきた。そのような事もあって、それから二年後には二回目の教団リトリートを持つことになる。

 一九九四年の第二回目のリトリートは、オックスナードのホテルで開催されているが、その時に語られた葛原千秋先生のメッセージが今も私達の心に火種のようにまだ熱く残っている。それは前回の「霊声」に記した内容でもあるが、お父さんの定市先生が百歳になった時に、ご子息達を集め、父としてその務めを充分に果たせなかった事に対して許しを請う内容である。その後で千秋先生は、「ホーリネスを強く説いた父でしたが、歳を取るに従って、ホーリネスな、ラヴィングなライフを完成しました。私の父の霊感を通して、死に至るまで、本当に聖められた者として、主にお仕えしたいと、願って祈っておる者です」と語られている。この「ホーリネスは愛を説く」というメッセージこそ、葛原定市先生が真に語りたかった内容なのではなかろうか。まさに聖めを説く者に相応しい生涯であった。そしてこれこそ、私達の目指しているホーリネスとは言えまいか。一九八九年には常石アーサー先生が教団の教職三六年目にして引退する。翌年には篠田ダニエル師が引退をしている。篠田先生は四六年目での引退であり、英語部牧師としては最も長く奉職されている。現在は南加のアルハンブラに移られているが、体調を崩しておられる。主の癒しと守りとを切に祈りたい。そして戸田ジェームス師、戸田ジョージ師ご兄弟が一九九七年に同時に引退されている。それぞれ四二年と三八年の長きにわたる牧会であった。これらの二世の先生方は実に私たち信仰者の良き模範であった。そして戦後の教会復興のために、ホーリネス教会のみならず、JEMS(日系人福音宣教協力会)の働きや、日系人教会復興に大きな貢献をされている。ここで言及しておきたい事がある。それは彼等のように、一世の働きを受け継いで来られた二世の先生方や兄弟姉妹達の尊い働きを忘れてはならないという事である。私達はとかく初代の先生方を云々しがちであるが、これらの二世の方々の働きは、決して一世の人後に落ちるものではない。今日の教団があるのは、彼らの祈りと献身の結果である。これは心していただきたいと切に切に請い願う。一九九七年、吹上信一師が引退されている。三二年間にわたって、北米ホーリネスのためにご生涯を捧げて下さったのである。先生は引退されたが、なお続いて前任のサンディエゴ教会の牧会にあたっておられる。先生を通して献身者魂を見せられる思いがする。この十年ほどの間に、愛する先生達が次々と天に召されていかれた。その度ごとに、一世や二世の時代が遠ざかってゆくような一抹の寂しさを覚えるのである。でも、それだけ天国が賑やかになったということであろうか。否、天国が更に慕わしくなったというべきか。佐久間英先生は一九九二年の十月に娘さんのお居られたシカゴで召されている。九二歳であった。先生は千葉県出身で、十八歳の時に渡米し、スクールボーイとして生計を立てている。先生は北米ホーリネス教会の創立に直接関わった一人である。男性の創立者の中では一番若かった。葛原先生の牧会を助け、教会の必要を得るためにガーデナーをしながら、身を粉にして教会に仕えて下さった。しかも五三年という教団では一番長期にわたって尽くして下さったのである。そして一九七三年に引退しておられる。先生を評して人は、「礼儀正しさと、落ち着きを持ち、清潔を実践される方」と云うが、誠にそうであった。厳格でありながら、しかし優しい神の紳士であった。奥様はシカゴでご健在である。

 八尋初夫人は一九九四年八月に召されている。享年九四歳であった。十五歳の時にお父さんを頼って渡米する。でも間もなくお父さんが日本に帰り、彼女はホイッティアに残り、敬虔なクエーカーの白人の家で六年間を過ごすことになる。これが彼女を信仰に導く切っ掛けになり、フレンド教会に導かれるようになる。やがてそこに八尋丈市(ジョージ)兄が現れ、五年後の一九二一年にゴールインすることと相成った。ご夫妻とも、「説教の上を行く」と云われた程の主の愛に満ちた牧会生涯を送られ、それは今でも語り草である。ご主人の八尋先生の召天後は、末娘さんの住むロサンゼルスに移り、そこで大腸癌を病み永眠する。北米ホーリネス教会創立者の一人としては最後の人物となった。八尋夫人の死をもって、創立者の時代はその終焉を迎える。

 末広栄司先生は一九九五年に召されている。享年八九歳であった。先生は賀川豊彦先生の著書「死線を越えて」によって霊的な目が開かれ、賀川先生がハワイに来られた時に主イエス様を受け入れ、賀川先生によって洗礼を授けられている。一九三三年にロサンゼルス教会を振り出しに、三七年間の長きにわたって奉職されている。戦後は北米ホーリネス教団の監督として就任され、教団及び日系社会の霊的リーダーとして、戦後の教会再建の土台造りをされた器である。先生は一九七五年に引退されてから一九八九年にいたるまでの十四年間、ご自分の信仰の証しとして、月刊誌「信仰の友」を欠かさずに発行してこられた。晩年は誠に好々爺として、私のような者にも良く声を掛けて下さり、おもてなしをいただいた。実に神の愛の器であった。

 黒田章先生は一九九七年の十一月に召されている。先生はハワイで信仰深いお母さんのもとに育てられ、土山鉄治というフリーメソジスト教団の監督が、ハワイの自宅に泊まった時に、師の祈りによって献身に導かれている。爾来、四四年にわたって教団に仕えて下さった。先生の牧会は「忠実」という言葉で集約できよう。私も先生の引退の頃の数年間、サンファナンドでご一緒させていただいたが、若い私のために、教団の当初の歴史をねんごろに語って下さり、私を教団人に仕込んで下さったのである。引退してからは、ご自分の仕事として現職の牧師達のために、日毎に祈って下さるという真実な器であった。

 一九九八年十月には木村連先生が召されている。七九歳であった。連先生のご両親はとても素晴らしい信仰を持っておられ、ロサンゼルス教会の創立五周年記念の時の集会で救われていている。連先生自身は一九三五年に葛原先生から洗礼を受けている。戦時中はアイオワ州のローア・キャンプに送られ、そこで献身に導かれ、一九五〇年にサンファナンドに任命を受けている。日本の青山学院大学で英語の教師をするため、一時教団を離れたことがあったが、後に再びサンファナンドに遣わされ、それからウエスト・ヴァレー合同教会の名誉牧師となっている。サンファナンドの日系センターでも、地域のために地道な活動をなさっており、実に柔和な愛に溢れた牧者であった。

 松永ジョン先生は二千年八月に突然天に召されていった。三八歳であった。腎臓の病のために長く苦しんでおられたが、こんなに早く主がみもとに召されるとは!先生はどこに行っても子供達の憧れの的であった。そして子供達の名前を良く知っていて、彼らのために祈り、彼らの魂を心から愛された牧者であった。先生の葬儀の時、祭壇の彼の写真の前で泣きじゃくり、そこから離れなかった一人の青年がいたが、ジョンがどれだけ子供達から慕われていたかという事実を現している。もっともっと長く生きて、子供達の成長を見守って欲しかったと思うと、その死が心から惜しまれてならない。

 さて二千年の十一月には、私達北米ホーリネス教団の母ともいうべき、沖本妙子先生が八四歳を一期に天に召されている。突然の訃報であった。嗚呼、信仰の勇者はみもとに召されたるかな!先生は戦前にも日本キリスト教団女性教職者を代表して渡米しているほどの才媛である。また将軍・徳川慶喜の末裔でもあった。告別式の時に、ご自分の牧会されてきたホイッティア教会の長老、前田実兄が「日本からはその才能を惜しんで引く手数多(あまた)の器であった。その才能を生かしていたら、もっともっと多くの働きが出来たであろうに」と言及されていたが、愛するホイッティアの群のために、まさしく心血を注いで伝道なさって来られたのである。それが沖本先生の真骨頂であった。愛すべき所であった。

 誠に、これらの先生方は私たちホーリネス教団人の鑑(かがみ)であると同時に、日系キリスト教界の至宝でもあった。神は私達の回りに、そのような多くの聖徒達を置いて下さった事を、心から主に感謝すると共に、そのように導いて下さった主を心から讃美したい。そして私達も彼らの信仰の足跡を歩ませて下さいと切に祈る者である。

終 章

 北米ホーリネス教会創立者の一人、佐久間英先生はかつて日本ホーリネス教団史(山崎鷲夫・千代崎秀雄共著)や、幾つかの北米ホーリネス教団の発足当時の記述をしている文書に関して、「それは違う」と云われていたと、人づてに伺ったことがある。それはどんな内容かというと、東洋宣教会・羅府教会が、中田羽後師によってリバイブされ、献身者が起こされ、そして、スタートしたというものである。つまり、佐久間先生は、「私たちの教団は中田羽後先生によって始まったのでもなく、自分達のように救霊の思いに燃えていた青年達の信仰的決断によって建て上げられた教会だ」と云いたかったようである。黒田章先生もまたそのことを「土着の教会だ」と強調され、私たちにいつもその事を話されていた訳である。

 確かに中田羽後先生が産婆役となって、この北米ホーリネス教団がスタートしたという事は、そのように羽後先生が「霊声」(一九六三年発行の一二四号)に記してあるので、それを鵜呑みにするしかないのである。それが先生の見解だからである。それはそれで良い。ところがである。羽後先生が初代の先生方を導いた頃には、青年達は全員が既に献身していて、神学校にまで通っていたという事実を私自身が見逃していた。私はその辺りの記事を「霊声」を通して何度も見てはいたのだが、実はその事に最近まで気が付かなかったのである。つまり羽後先生が来られた時には、彼ら青年達は既に皆が神学校に通うほど、救霊に対する燃える思いを抑えきれないほどに、伝道精神に燃えていた時だったのである。では誰が彼ら青年達を献身にまで導いたのであろうか。それは不明である。でも、察するに二人の先生方が考えられる。その一人は羽後先生の前にホイッティアのフレンド教会の牧師であった高田松太郎先生である。その時すでに先生のもとに、佐久間英、矢野初、八尋丈市(ジョージ)等が集っておられたからである。でも高田先生は教育学を学ばれて、やがて日本で幼稚園を経営されながら、牧会を続けられた先生なので、どちらかと云うと、リバイバリストというタイプの先生ではなかったようだ。

 ところがホイッティアのフレンド教会の一九一九年の年鑑には、日本のビリー・サンデーと云われた伝道者・木村清松がパサデナで特別集会をしたと記してあり、十二〜十五名の決心者が与えられたとある。木村清松については、こんなエピソードがある。彼がナイアガラの滝を見物に行った時、地元の人に「日本にこんなすごい滝はないだろう」と言って自慢された事があったのだが、その時に彼は機転を利かして、「この滝はわたしの天のお父さんが創ったんだ」と言って、相手をギャフンと云わせたというのだ。そんな伝道者の特別集会で、これらの青年達が献身を決意していたのかも知れない。それが一九一九年であり、少なくとも中田羽後先生がホイッティアに赴任する以前の事であった。しかも日本ではリバイバルの炎が燃えていた頃である。何だかこれらのことを想像するだけでも、胸がワクワクする話ではないか。

 そこで、愛するホーリネス教団人よ!佐久間先生、黒田先生と続いた「北米ホーリネス教団は土着の教会である」と言い続けてきた一徹な伝統を私達も継承しようではないか。つまりこれは、「このアメリカのどこの教会のお世話にもならず、日本のホーリネス教会に所属していながら一銭のサポートも受けず、一世と二世の信徒達の手で建て上げられた教会だ」という意味なのである。果たして佐久間先生が、現在この記事を読まれたら何と言われるであろうか。興味深い所ではある。

 さて先日、ハリウッドのホバートとレモン・グローブの一角を尋ねてきた。そこは以前から必ず一度は行ってみようと思っていた念願の場所であった。実はその辺りは、一九二一年に東洋宣教会・羅府教会が産声を上げた場所である。だから、そこが一体どんな場所なのかを知りたかったのである。キョロキョロ辺りを見廻していると、何とそこに十字架の掲げられた修道院があるではないか。そこで内庭を歩いていたシスターに、「この辺りで、トリニティ教会だった場所を知りませんか」と尋ねたところ、そのシスターは「ここが東洋宣教会でしたよ」という返事であった。一瞬、私はどうして彼女が八十年前の東洋宣教会の事を知っているのかと自分の耳を疑った。確かに私達の北米ホーリネス教会の創立者達は「東洋宣教会」という看板を掲げて教会をスタートしたが、それは当時のトリニティ・ミッショナリー教会のチャペルだけの話で、そこは加州聖書学校の一部であったはずだ。それがどうして、東洋宣教会という建物になったのであろうか。恐らく当時の東洋宣教会の総理であったカウマン夫妻が、その場所を後日購入したからだと思う。

 かつて、あるホーリネス教会の兄弟が「私達と東洋宣教会とは直接関係ないのだから、その名称を取ってはどうだろうか」と言ったのを聞いたことがある。確かに物的にも、人的にも、財的にも日本やアメリカの東洋宣教会からは一切援助を受けてはいない。だが我が創立者達が「東洋宣教会」の看板を掲げて、この北米の地に伝道を始めた理由はこうであろうと思われる。そもそも一九〇五年に、中田重治監督が神田の聖書学院と伝道館を、「ホーリネスを日本だけではなくて東洋にまで広げよう」という熱情から、「東洋宣教会」と銘々した所にその名の由来がある。そして葛原定市師が来られる以前に既に、佐久間先生はじめ青年達を献身まで導いた指導者達全員が木田文治、高田松太郎、木村清松、中田羽後という東洋宣教会の教職者達だったのである。彼らのホーリネスを伝えずにはおれない熱情と、救霊への燃える思いに我らの創立者達も燃やされたからに他ならない。東洋宣教会という名前こそ、彼らの心を燃やし続けた伝道意欲に直結していると思えば、などてその名を捨て去ることが出来よう。むしろ私達もそれを誇りに思い、彼らの思いを尊重しなければならないと思うのである。

 さて我が北米ホーリネス教団が今日あるのは、何と言っても、教団創立に携わった青年達や、葛原定市先生ご一家の犠牲的、献身的な働きの故であるが、今日の北米ホーリネス教団を考え、将来の発展と展望を考える時に、戦前の教会にはあっても、現在欠けていると思われる面が幾つか散見されるので、それらを列挙してみようと思う。

 その第一は、「祈りの優先」である。この教団がスタートしたのも、リバイバルが起ったのも、そして成長してきたのも、これらの祈りによるところが大きい。そう云えば、末広栄司先生が引退なさった時に言われた言葉が今も私の脳裏にくっきりと残っている。「私は、今にして後悔していることがある。それは私の牧会生活において祈りが充分ではなかったという事だ」と。この教団の原点は、祈りにあったことを、今一度心に留めたいものである。

 第二は、「聖めの経験の重視」である。この理解に関して、遺憾ながら日語部と英語部との開きは大きい。またこの理解に関して、教職者個人の中でも様々な開きがあるようだ。でも葛原千秋先生がリトリートで言われていたように、定市先生の生涯をみる時に、愛に裏打ちされた聖めの経験こそ、大切にしたい伝統ではないか。

 第三は、「聖霊による一致」である。戦前は葛原監督の下、教会が一致して物事に当たってきた。実はそれが全体を一つにしてゆく力であった。現在は委員会制であるので、以前のようにはいかないが、それにしても以前は、教会間の交わりや、行き来がもっともっと頻繁であった。お互いが一つなのだという意識を今一度回復したいものである。

 第四は「再臨待望信仰」である。葛原先生自身の家族の中に天に召されてゆくご子息があり、それが先生の再臨信仰を強いものにしてゆく。またその信仰がどれだけ、戦前の教会を再臨待望の信仰に導いたことであろうか。ホーリネス教会以外では、この再臨の話などは聞けなかった時代である。そんな時に、葛原先生を通して語られる再臨の慰めのメッセージは、師に続く者達をどんなに励ましたことであろう。特に、家人の者達を失い、悲しみのどん底にあったロサンゼルス教会の岡田ひで姉、加藤宝兄姉達にはそれがどんなに励ましであったことか。

 最後に私達が、北米ホーリネス教団の将来の発展を考える時、もう一つのチャレンジがある。それは海外にある日本人教会の特権とも言うべき存在についてである。一九九〇年のフリーメソジスト教団教職者の水城ジョン先生の統計によると、在米日系人のクリスチャン人口のパーセンテージは、対日系人比で三・八八%であり、これは一九七七年の統計と較べると、一%近い増加だという。一方、日本のクリスチャン人口を見てみると、キリスト教の異端である、ものみの塔、モルモン教、統一原理等と、更にカトリックを加えてもまだ一%だと言われているから、それらを除いたクリスチャンの対日本人比は0・二%前後だという。実に悲しいほどに寂しい数値である。でもこの日本の0・二%と北米の三・八八%の差は大きい。一九九六年にホノルルのホーリネス教会を辞され、現在は伝道者として、全世界を飛び回っておられる中野雄一郎先生は、ここ数年来の日本人クリスチャンの統計を引用されて、「日本で洗礼を受ける人は二千人、海外で洗礼を受ける日本人も二千人」と言われたことがある。つまり、海外の日本人教会の存在は誠に大きいと言わねばならない。今後その比重は更に大きくなってゆくに違いない。

 また北米ホーリネス教団の将来を展望する時に銘記しなければならない事の一つは、この四半世紀にわたって、三世、四世、韓国、中国、あるいは新一世、新二世の子供達からなるユース・クワイアーが、国内のみならず、日本やブラジルに至るまで、その讃美を通して主に仕えてきたという事実である。彼らの讃美は明るく、そして輝いている。彼等こそ、教団の宝である。また北米ホーリネス教団は「ミッション・ステートメント」を掲げて、教会開拓を主眼とし、失われた魂の救いを求めて更なる前進をしようとしている。教団はそのように、絶えず救霊のために全力を注いできた群であることを、何よりも誇りとしたいと思う。またそうあり続けることを、切に主に祈る者である。